■もはや「秘湯」は存在しない!?
交通の便が悪く、知る人ぞ知るという温泉。秘湯に泊まるのは、温泉ファンの憧れでもある。しかし、現実には、秘湯気分を味わえる温泉はめったにない。
ほとんどの温泉宿は、車でアクセスできてしまうし、人気の「秘湯の宿」はテレビやウェブで頻繁に取り上げられるので、休日などは人でごったがえす。「秘湯」と呼べる温泉は、もはや絶滅危惧種である。
しかし、関東地方にも「秘湯」と呼びたくなる温泉が残されている。標高1500メートルの山中に湧く「手白澤温泉」である。「関東最後の秘湯」と評される一軒宿だ。
鬼怒川の源流部に位置する手白澤温泉に、電気や電話が引かれたのは1986年のこと。それまではランプや自家発電の宿で、交通アクセスも徒歩にかぎられていた。
現在はスーパー林道が開通している。が、国立公園内に位置するため一般車の通行はできない。手白澤温泉は、宿による送迎は行われておらず、アクセスは徒歩にかぎられる。しかも、駐車場からは2時間半の道のり。このアクセスの困難さが、「関東最後の秘湯」と呼ばれる理由である。
一般車とバスがアクセスできる最終地点である公共駐車場に到着したら、約6キロ山道を歩いていく。とはいえ、沢沿いの道は平坦な遊歩道が続き、激しいアップダウンはあまりない。登山というよりも、ハイキングに近い。
道中は自然の宝庫。ダイナミックな滝や巨大な岩など見どころが多い。シカやニホンザルがひょっこり顔を出すこともある。特に宿の手前に広がるブナの原生林は美しい。
■圧倒的な湯量と満点の星
ブナ林を抜けると突如、立派な建物が現れる。山小屋風の旅館を想像していると、面食らうことになる。館内は派手な装飾こそないが、木をふんだんに使った清潔感あふれる雰囲気。「デザイナーズ系旅館」といってもいいだろう。
女性に人気があるのもうなずける。部屋は6室のみ。12畳の広々とした和室には、テレビがなく、携帯電話の電波も入らない。
男女別の浴室は、内湯と露天風呂がひとつずつ。毎分300リットルも大量に湧出している源泉が、ザバザバとかけ流しにされている。
内湯には、滝のように源泉が勢いよく注がれ、「ドカドカドカッ」という音が浴室内に響く。透明な湯は、甘い硫黄の香りがほんのりと漂う単純硫黄泉。糸くずのような白い湯の花が大量に舞っており、スベスベ感のあるやさしい肌触りが特徴だ。
露天風呂も負けていない。岩風呂は開放感いっぱいで、湯船から眺める手白澤の清流と大割山が織りなす風景は、まるで一枚の絵のようだ。聞こえるのは川のせせらぎと、ときおり響くシカの鳴き声。必要最低限の照明以外、特別な設備は何もない。だから夜になれば、頭上にすさまじい数の星が輝く。
湯船以上に気に入ったのが、洗い場である。シャワーもカランもないが、代わりに、湯口から大量の温泉が24時間、常時注がれており、木の臼状の湯溜まりからあふれている。こんな贅沢な温泉の使い方をしている温泉は他に知らない。
■山奥とは思えない「フランス懐石」
山の宿の食事といえば、素朴なイメージがあるかもしれない。しかし、手白澤温泉の夕食は、山奥の宿とは思えないほど充実している。
川魚や山菜など山の幸が、オシャレな皿や器に盛りつけられ、料理にもひと工夫が加えられている。たとえば、山の定番食材であるイワナは、塩焼きにする宿がほとんどだが、ここでは燻製で提供されたりする。
見た目も美しく、「フランス懐石料理」と評されることもあるほどだ。ビオワイン(自然派ワイン)の種類が豊富なのも酒飲みにはうれしい。
ロケーションは「秘湯」そのものだが、何ものにも代えがたい「贅沢」な時間を楽しめる宿である。