猪突猛進の柴田勝家
今年の干支は亥(いのしし)。いのしし(猪)というと荒々しいイメージだが、戦国の武将、柴田勝家は主君家の織田家のためなら命も捨てる“猪突猛進”の性格である。
やんちゃの織田信長が信秀の跡取りとなった際のお家騒動では信長に反旗をひるがえした。しかし、今一歩のところまで追い詰められた信長がわずかな手勢で勝家軍をやぶると、勝家は信長に心酔し、信長のために一身を捧げることになる。
勝家は、織田軍団の主力として活躍を続ける。信長上洛の鍵をにぎる近江戦線、北陸路の戦いに勝家は、敵に反撃のすきを与えない、まさに牙を立てて突入する猪軍団の先頭に立った。
変化の転機
武将の中の武将の柴田勝家に転機が訪れたのは、天正3年(1575年)9月、信長が勝家の奮闘ぶりを評価して北陸方面軍の司令官に抜擢したことだった。
北陸地方は、一向一揆勢力が粘り強く反信長で戦い続け、越後の上杉謙信も南下を狙っており、信長の天下統一戦略にとっての要地である。その地の軍政を勝家が委ねられたのだ。
越前(福井)を拠点にした北陸の統治は軍事だけでは進まない。荒廃した経済の再建が急務であった。楽市楽座を設けて商業活動を刺激し、インフラ整備にも尽くす。軍事行動は、配下の武将、佐久間盛政らに任せ、勝家は領国統治全般に目を配るようになる。
軍事でここまで上り詰めた男にとって大転換である。「君子は豹変す」である。この故事は、〈人は信用ならない〉という否定的意味で取り上げられがちだが、中国の古典『易経』では、前向きに教訓化されている。「君子(できる男)は、日進月歩、常に良い方向に変化するものである」という意味だ。
「自分はこういう性格だ」と固定的に捉えるようでは、世を動かす人物にはなれない。この成句の後段はこう続く。「小人は面を革む(しょうじんはおもてをあらたむ)」〈できない男は、表面だけ変わったふりをするだけだ〉
相手(秀吉)が悪すぎた
その後、信長が本能寺で倒れると、柴田勝家は、豊臣秀吉から目のかたきにされる。そうれはそうだ。織田家から権力を簒奪しようとする秀吉と、あくまで織田家大事を貫く勝家では水と油なのである。
北近江の賤ヶ岳(しずがたけ)での最終決戦では、秀吉軍の主力はいったん戦線を離れ美濃方面へ転戦した。秀吉一流のワナである。これをチャンスと見たのは、勝家が軍事を任せた佐久間信盛だった。賤ヶ岳へ攻め上り、「戻れ」という勝家の司令を無視して、一晩で前線に駆け戻った秀吉軍に勝家軍は敗れ壊滅してしまう。
「豹変」が裏目に出た。軍事の実権を武将に譲ったことで、軍の統制がきかなくなったのだ。なんとも皮肉な結果だった。
(書き手)宇惠一郎 ueichi@nifty.com
※参考文献
『中国古典名言事典』諸橋轍次著 講談社学術文庫
『易経(下)』高田眞治、後藤基巳訳 岩波文庫
『信長公記』太田牛一著、中川太古訳 中経出版新人物文庫
『信長軍の司令官』谷口克広著 中公新書
『信長の家臣団』樋口晴彦著 学研M文庫