第一次ポエニ戦争でローマに破れて西地中海の制海権を失ったカルタゴは、海洋交易国家として存亡の岐路に立っていた。
ローマと再び戦って勝つ以外に生きる道はない。スペインで将軍となりイベリア半島の平定を進めていたハンニバルは、イタリア本土への侵攻を目指した。
敗戦国が講和の制約を破り、再び海外に軍を進めるには名分が必要である。ハンニバルは、スペインの地中海沿いにありローマと同盟関係を結ぶ都市、サグントゥムを包囲し陥落させた。
ローマの反発を見越してのことだ。狙い通りに怒ったローマがカルタゴに宣戦布告したことで戦争に突入する。
紀元前218年5月、29歳のハンニバルは歩兵・騎兵合わせて10万2千の軍と象37頭を率いてスペインを進発。ピレネー山脈を越えてガリア(フランス)を横断し、イタリア国境のアルプスに向かう。
ローマ軍は、大軍を率いてのアルプス越えなど不可能だと高をくくっていた。敵の虚をついたカルタゴ軍は、山中の部族と戦い、雪中の崖に道を切り開きながら進む。
ようやくたどり着いた峠の頂上で疲労困憊する兵たちを前に、ハンニバルは眼下に広がる北イタリアの平原を指差して叱咤激励した。
「さあ、そこはもうイタリアだ。まもなく、お前たちはローマの主人になれるのだ」
二千メートル以上の峠に難路を切り開いてのアルプス越えは15日で成し遂げられた。
スペインを出発して5か月。イタリア側に降り立ったハンニバルの兵は二万の歩兵と六千の騎兵のみ。出発時の四分の一に減っていた。
それでも、近代戦の重戦車とも言える、カルタゴ軍の独自戦力である象は20頭が生き残った。
あまりに大きな犠牲を払ったアルプス越えは無謀とも見える。しかしハンニバルには勝算があった。
北イタリアはいまだローマの版図には組み入れられていない。北への領土拡張を続けるローマとガリア人の抗争が続いていた。そのガリア人たちを味方に引き入れることができれば、山越えで失った戦力は補える。
古代の歴史家たちが書き残した戦記を見れば、ハンニバルという男、決して血気にはやるだけの若者でない。
情報収集を重視し、確かな戦略眼と戦術の巧みさを随所に見せる。組織運用の要諦を心得ていた。
その知将ぶりがこのあと、十五年にわたりローマ軍を翻弄することになる。 (この項、次週へ続く)