幕末から維新の歴史というと、坂本龍馬をはじめ志士たちの血湧き肉踊る活躍に目が行く。幾多の小説、大河ドラマの題材にもなる。
志士の活躍に焦点をあてるのは、薩摩・長州を中心に新政府を打ち立てた勝者による史観でしかない。勝てば官軍。そこから得られる教訓は一方的なものとなる。学ぶべき本質は外圧による未曾有の危機に国家、各地方政権が組織としてどう対処したかにある。
嘉永6年(1853年)7月8日夕、米国東インド艦隊提督ペリーが率いる4隻の砲艦が東京湾口の浦賀沖に姿を現した。うち2隻は黒煙を吹き上げる見たこともない蒸気船だった。黒船の来航である。
ペリーは合衆国大統領の親書を携え、江戸の幕府に開国を迫った。
対応するのは、老中首座、老中を束ねる、現代なら総理大臣格の阿部正弘。阿部にとって「寝耳に水」というわけではなかった。19世紀に入り、列強各国の船が各地に来航し開国、交易を求めていた。英国が中国に対して仕掛けたアヘン戦争(1840—42年)の情報も入手していた。
さらに、阿部にはペリー来航前年の夏、長崎出島に駐在するオランダの商館長から重要な情報がもたらされている。
「来年、米国と英国はそれぞれ艦隊を率いて日本に対して強硬に開国を迫る予定だ」
鎖国体制とはいえ、先進国の中で唯一、交易が許されていたオランダは、情報窓口として機能していた。
阿部は、幕閣に情報を開示し対応を諮るが、攘夷論が大勢を占めた。肝心の長崎奉行からは、「オランダ人は信用ならない」と情報を軽視する回答があった。
一年あれば、開国であれ、攘夷であれ万全の準備ができたのだが、備えも十分でないまま、黒船は江戸の胸先に現れた。
外交は、確かな情報を手に入れ、流れを読んでの揺るがぬ戦略を取ったものが勝つ。
アジア進出の遅れを巻き返すべく、米国は必死だった。ペリーは、出航に先立ち、タカ派の大統領フィルモアに、「友好より恐怖に訴える方が効果あり」と進言し、大統領は、「必要なら琉球(沖縄)を占領せよ」と指示している。
強硬なペリーに、時間稼ぎしか方策のない阿部は押されに押された。幕府は交渉の入り口で情報戦に敗れたのである。
いまや産業界は、日本が世界に誇ってきたガソリン車から電気自動車の時代に突入し、あらゆるものがインターネットに“つながる製品”が求められるという巨大な変革の波に洗われている。情報戦に敗れれば生き残れないのは今も同じだ。(この項、次回に続く)