黒船来航という国家的危難に向け、徳川幕府の対応が遅れたのは前回見た通りである。
しかし、責任者である老中首座の阿部正弘も、ただ愚鈍な男だったわけではない。
幕政に参画する譜代の家柄、備後福山藩(岡山県)十万石の大名であり、財政にも明るかった。弘化二年(1845年)、老中首座に就いた。わずか27歳の俊英だった。
就任するや、国防の充実を目指し動く。幕府機関として自ら主宰する海岸防禦掛(ぼうぎょがかり)を新設し、有能な人材をここに集中する。隣国中国がアヘン戦争を皮切りに列強の圧力を受け、いいように侵食されているのを見て、国防だけでなく外交政策の権限もここに集約した。黒船来航まで8年。時間は十分にあった。
俊才・阿部の失策の一つは、せっかくの組織を十分に機能させられなかったことにある。
海岸防備にしても、幕府はおろか各藩も財政が逼迫しており、砲台建設の青写真は描けても、計画はほとんど動かなかった。
二つ目の失策は、外交研究の不足である。阿部は、攘夷一辺倒では危機は乗り切れないと見ていた。開国やむなしの立場に立ち、就任四年後、外国船打払令の復活を斥けている。
ならば、近い将来、列強との開国交渉において、何が必要かを、人材を海外に派遣して研究する必要があったが、それを怠った。後に米国が突きつける開国条件を吟味する力がなかった。
阿部は、幕府の体制自体に危機対応能力が欠如していることは熟知していた。一握りの譜代大名のみが幕政を扱い、外様大名はおろか、尾張、紀州、水戸の御三家(親藩)さえも、政治決定場面から排除する幕府体制。
阿部は個人的に外様、親藩にも開国政策について諮問しているが、幅広く議論し決定する合議体制を整えられなかった。オールジャパンの体制が不可欠と知りながら、雄藩が参加する議会機能創設には思いが及ばない。三つめの失策だろう。
その方向に進んでいれば、維新は、幕府の主導で成し遂げられていたかもしれない。
阿部は、「自分では意見を言わず、ただ、相手の言葉を聴くのみで、とらえどころのない瓢箪鯰(ひょうたんなまず)」との人物評が残っている。今風に言えば、優秀だが、調整型のリーダーであろう。敵はつくらない。
平時なら名老中と評価されただろう。
しかし、危機を目前にした有事において、リーダーに求められるのは、先を見すえる先見性だけではない。見抜いた未来に必要な改革を大胆に遂行する毅然とした指導力だ。
「優秀でいい人」だけでは務まらない。(この項、次回に続く)