幕末の政治闘争を軍事衝突によって勝敗を決した鳥羽伏見の戦いで、最後の徳川将軍・慶喜(よしのぶ)のとった行動ほど奇妙なものはない。「討薩の表」を大目付の滝川具挙(たきがわ・ともあき)に持たせて上洛させた張本人の慶喜は、大坂城に留まったままだった。
幕府軍が京へ向かった前日の慶応4年(1868年)正月1日に、討薩の表をしたためているから、自ら上洛する意思はあったとみるほかない。
その文面は激烈だ。各地で起きている騒乱は、薩摩の煽動によるものだと指摘した上で、
「その奸臣どもを引き渡されたし」と願い出て、それが叶わないならば、「止むを得ず誅戮(ちゅうりく)を加え申すべく候」と、軍事力での薩摩勢の排除の強い意志を見せている。
ところが、軍の出発にあたって慶喜は風邪を理由に寝間着のままで起きてこようとしない。戦い必至と見て躊躇したのだ。指揮官が後方でふて寝している軍が機能するわけもない。
幕府内の強硬派に押し切られたまでで、慶喜は一貫して戦いを避けようとしたとの擁護論もある。だとしても強硬派を統率できないリーダーなど、その時点で失格だ。
案の定、京にたどり着けず敗北を重ねた幕府軍は大坂に退却した。そこでまた、慶喜は奇妙な心変わりをする。
大坂城は難攻不落の城である。無傷の兵力5000が残っている。敗残の兵力を合わせて立て直すなら、戦いの行方はまだわからない。
6日夜の軍議。慶喜の出馬をせっつく幕閣たちに慶喜は言う。「よし、これより出馬する。皆々用意せよ」。軍の士気はようやく上がる。
だが、その夜のうちに慶喜は城を抜け出し、幕府の新鋭艦「開陽丸」で江戸へと逃げ帰る。兵士たちを置き去りにして。
悲惨だったのは会津藩をはじめ、はしごをはずされた形の幕府支持の奥羽列藩同盟だ。賊軍とされ、錦の御旗を得て「官軍」を名乗る薩長軍の蹂躙を受けることとなる。
一度は不戦での京都撤退による政治決着を試みた慶喜だが、その後、上洛軍の進発、軍事衝突への躊躇、再度決戦を決意、逃亡と、最高指揮官の采配は揺らぎ続けた。
いかなる闘争でも、強行突破か、柔軟策か、方針が揺れることはある。こだわるばかりでは自体の推移についていけないこともあろう。しかし、度重なる方針変更でその都度「振り出しへ戻る」となれば、従う部下などいない。
部下どころか、運命の女神もあきれて見放してしまう。リーダーとして、一つのことで重大方針の変更が許されるのは、一度のみだ。