1994年、債務超過・倒産寸前に陥り、主力銀行からも見放された子会社の日本レーザーに、親会社の命を受け代表取締役社長に就任。“人を大切にしながら利益を上げる”経営改革を進め、就任初年度から黒字化、以来25期連続黒字、12年以上離職率ほぼゼロへ導いた近藤宣之氏。経営再建に乗り込んだ日本レーザーは、修羅場そのものだった。経営破綻につながる「4つの不良」とは。
破綻企業の「4つの不良」
企業の売買やレイオフなどが当たり前に行われているアメリカでの経営を味わってきた自分が日本レーザーの再建を任され、「人を大切にする経営」で行くぞ!と心を決めたのは前回お話した通りです。
このセミナーに参加している社長方の会社は、それだけで皆素晴らしい会社だとわかります。日本レーザーはどうだったか。一言で言えば「不良だらけ」の会社でした。
- 原価率を下げるための過剰が生む「不良在庫」
- 事業の見通しのミスによる多くの「不良設備」
- 無理な売上計上で膨らむ「不良債権」
- 「企業風土の悪化」で増える「不良人材」
この「4つの不良」が悪循環を生む状態でした。社長として「目の前にあるこの不良資産を取り除くこと=バランスシートを綺麗にしていくこと」が最大の問題であるとわかりました。
しかし、これに真っ先に取り組むと、絶対に失敗します。
「勝ちに不思議の勝ちあり、負けに不思議の負けなし」は企業破綻も同じ
やっぱり何をするにも、きれい事抜きでお金は大事です。経営再建の一丁目一番地はやっぱりPL。損益計算書の方をキレイにしていくことから私は始めました。
何が何でも、まずは2年間で累積赤字を一層する。在庫がどうなろうとバランスシートが悪かろうと、見かけをキレイにして復配する。
そうすることで、少しづつ社員が自信を持てるようになりました。
そして利益を出してからようやく初めて不良在庫を処分し、不良設備を償却し、不良売掛金を落としていく、という順番で進めました。
ただ不良人材については流石にこちらから首を切る訳にはいきません。私は真剣に新しいやり方で経営再建と経営改革を進めました。それが嫌で「合わない」という方が出てきて、自ら退職を申し出られた場合は追わない、という形にしました。
ここで、故・野村克也監督もおっしゃっていた通り、スポーツの試合においてだけでなく、経営破綻においても「勝ちに不思議の勝ちあり、負けに不思議の負けなし」だと思うんです。負ける(破綻する)時は間違いなく負けてしまう。そこには不思議はありません。だからこそ、意図して仕組んで潰れない様に仕掛けていく努力が欠かせません。そこまでは私も全力でやりました。
しかし、勝つためには何というかラッキーや目に見えないプラスアルファとしか思えない、「運」が経営においても必要なんだと痛感します。
どんなに仕組みをうまくつくったって、運がなければ最終的にはうまくいかない。
だったらどうすればいいのか?という問いに対して私は、だからその分は「社長の生き様」こそが運を引き寄せるし、大事なんだというのが結論です。
元も子もないという方もいるかも知れませんが、本当にこれが答えだし、意図して運を味方につける方法はあるのです。
逆風の下地をつくった「4人のボンクラ社長」
実際問題、社長就任当時は修羅場でした。
創業以来、主力銀行が1行しかなく、その銀行が債務超過になった途端に手のひらを返した様に親会社が「債務保証をしてでも、もう新規の融資はしない。個人保証もダメ」だということになりました。
土地、建物、不動産…担保になるものは何もない商社です。人だけが財産という中で、親会社から4人交互に順々に社長をやり、私が5人目として送り込まれました。当時お金もないということで、運転資金1億円を親会社から持参して再建に乗り込んだのです。
誰も私に期待していませんでした。むしろ、敵対視。当時最年少役員、組合の経験もあり、アメリカでの経験から輸入商社としての英語もできるし、国内での営業経験も買われて私が選ばれたんです。私は社員のためになると思って乗り込んでいきましたが、とんでもなかった。
私の社長就任直後に、当時ナンバー2の常務が海外メーカーとつるんで反旗を翻したのです。力のある部下や部課長を引き連れて、会社の大事な輸入代理店や海外メーカーのの商品を日本で売る権利などを根こそぎ持って独立してしまいました。わずか1年の間にです。
結局、会社の経営がもはや崩壊していたという事が実態でした。それが私が入ったタイミングでした。
黒字を出した直後の飲み会の席で聞こえた「社長の悪口」
「私は、辞めたいと思った者を止めることはしない。ただ、人を切ることは絶対にしない、リストラはしない。新しいやり方で会社につくりかえる。だから着いてきて欲しい、信用して欲しい」
強く訴えたのにもかかわらず、たった1年の間に立て続いた部下の裏切りによって、フランス、イギリス、イスラエル…商圏が次々に失われました。これは日本レーザーのビジネスモデルの宿命でもあります。やむを得ない部分もありました。
運良く1年目で黒字を出すことができました。まだ復配まではできませんでしたが、「なんとかなる」という未来を見せることができた…と少しホッとしたのを覚えています。
ところが、飲み会の席で色々と悪口が聞こえてくるんです。
「近藤さんはいいよね。三年連続赤字だったのに、一年目から黒字になった」
「まだ若いし、2~3年我々をこき使って本社に戻っても50代の最年少役員だ」
「そこでどうせ社長になるんだ。近藤さんのために俺らが働くのなんか、バカバカしい」
でもこれを聞いて、私も「そりゃそうだ」と思った。自分だって社員だったらそう思うだろうなと。必ず社長と金庫番と監査役、ひどい時には技術部長や営業部長まで親会社からやってきて…という会社でしたから。人の出入りが当たり前の状態だったのです。これじゃあ、信用もあったもんじゃない。
だから私はこれからも出ていかないという前提で社員と一緒にやろうと思い、社長就任2年目に、3期6年務めた親会社の取締役を辞めることにしました。
(続く)
■近藤宣之(こんどうのぶゆき)氏/日本レーザー 代表取締役会長
社員を幸せにしながら26期連続黒字を続ける、信念の経営者。
東証一部メーカー日本電子の最年少役員だった氏は、1994年、2億円近い債務超過で倒産寸前に陥った子会社・日本レーザーの再建を託され社長に就任。かつて、労働組合委員長として1000名規模の人員整理に直面。その後もアメリカ法人の再建を次々と成し遂げた手腕を買われての抜擢であったが、リストラを一切行なわず、再建の混乱に残ってくれた全社員の力を集結して2年で累損を一掃する。
「会社は社員のために、社員は会社の成長のために力を合わせて働く仕組みなくして、持続的発展はあり得ない。赤字になると人を切ってしのぐ経営は危機に弱い」と思い至った氏は、雇用の確保と社員の成長・活躍支援を経営の最重要課題として掲げ、独自の幸福経営モデルへと改革。2007年には、経営の自由度を高め、自らが信じる理念を貫くため、全社員の出資と個人保証6億円を負っての借入金で親会社からの独立を果たす。
この間、「70歳まで生涯雇用」「女性管理職3割」「年功型から同一労働同一賃金、実力主義型への移行」などをいち早く実現しながら、一貫して黒字を維持。同社を自己資本比率55%の実質無借金、10年以上離職率ほぼゼロの超ホワイト企業へと育て上げた。2018年より代表取締役会長。
1944年東京生まれ。慶應義塾大学工学部卒。第1回「日本でいちばん大切にしたい会社大賞」中小企業長官賞など、受賞歴多数。人を大切にする経営学会副会長。千葉商科大学大学院商学研究科特命教授。東京商工会議所一号議員。著書に『中小企業の新・幸福経営』(日本経営合理化協会)『ありえないレベルで人を大切にしたら23年連続黒字になった仕組み』(ダイヤモンド社)ほか多数。