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逆転の発想(12) 米びつを担う自負(渋沢栄一・続)

指導者たる者かくあるべし

 硯と筆
 新型コロナウイルスの蔓延は世界経済を揺るがしている。昨年後半から米国主導で景気は持ち直し、先行きに明るさが増しつつあっただけに、未曾有の景気縮小に経済に関わる人たちは、恐怖におののいているだろう。「日本資本主義の父」である渋沢栄一ならこの危機に際して何を言うだろうかと思いをめぐらせている。
 
 時は明治末年のこと。経済人は私財の蓄積より社会貢献の義務を果たせと主張する渋沢は、自ら創設した第一銀行の晩餐会で、経済を担う自負を披露する有名な演説を行った。世に言う「米びつ演説」である。
 
 会場には、財界人ばかりではなく、政治家、軍人、学者たちが詰めかけていた。渋沢は中国の古典を引用して、こんな話から切り出した。
 
 「硯と筆と墨は、いずれも文章を綴るのに用いるちかしい道具ではあるが、ただその寿命が異なる。筆の寿命は短く、硯のそれは永遠に近い。墨はその間にある。寿命の長短はそれぞれが持つ本質による。筆の働きは鋭く、墨はこれに次ぎ、硯は鈍い。硯は鋭くなく動くこともないけれど、静かに永遠の命を保つ」
 
 そのころの日本は日露戦争に勝利して軍人が幅を利かし、政治外交も行け行けどんどんの時代である。その一方で社会格差が生まれ、社会主義運動がうごめきはじめていた。さて渋沢は何を言いたいのかと、聴衆たちは話の展開を待つ。
 
 目立たぬが大事な仕事
 渋沢が言いたかったのは、それぞれに似たものであってもそれぞれに長所があり、用途により性質が異なるということだろう。
 
 「私は硯でありたいと願うが、ひるがえって家庭内の調度を見渡しても、それぞれに用途が違う。政治外交は床の間の掛け軸のようなもの。玄関に飾られた武器甲冑は海陸軍のようで、教育が書棚の書物、法律は屏風か襖にたとえられよう」。そして言う。
 
 「ひとり商工業は座敷の中には用のない、台所の道具である米びつ、鍋、鉢、ほうきのように扱われている。政治外交軍事教育などはだれの目にも入るが、商工業が目立たないのは台所道具が客の目に止まらないのと同じだ」
 
 そして、「だが、効力から申し上げるなら、米びつは一家のうちにおいて最も必要なものだ。もし米びつの中が乏しくなれば、他の道具がいかに美しく飾られようとそれはみすぼらしいものとなる。最も大事なのは、掛け軸でも、甲冑でも書籍でも屏風襖ではなく、米びつなのだ」
 
 政治家、軍人らが呆気にとられる中で、財界人たちから万雷の拍手が鳴りやまなかったという。維新から40数年、いまだ商道はさげすまれていた時代である。渋沢の自負は全経済人の自負でもあった。
 
 経済主導の危機克服
 コロナウイルス騒動で社会全体が萎縮し、出口の見えない閉塞感に包まれている今を考えてみる。
 
 経済建て直しのために政治主導で大規模な景気対策をと財界は要望する。だがしかし、経済は政治の単なる従属物ではない。東京五輪が延期になれば、さらに景気が落ち込むなどと嘆いている暇はない。
 
 逆転の発想をもってするならば、まず経済が立て直ってこそ、100年に一度あるかないかの現状の危機に国民全体が立ち向かえるはずである。政治頼みで特別減税を請い願うばかりでは突破口を見いだせまい。
 
 『論語と算盤』の中で、渋沢は「(危機においてこそ)経済界は、独立不羈(どくりつふき)の精神を発揮せよ」と言う。「民間の事業が政府の保護に恋々たる状(さま)の見えるごとき風を一掃し、鋭意民力を伸長して、自力で事業を発展させる覚悟が必要である。法律規則の類を増発し、規制内で満足しあくせくしているようでは、とても進新の事業を経営することは覚束ない」。
 
 「危機にこそ、経営者の力が問われるチャンスなのだよ」との渋沢の声が聞こえてきそうだ。
 
 渋沢が力説する〈商工人は、徳義上の義務として社会に尽くすことを忘れてはならぬ〉という社会貢献の考え方は、単純なボランティアの奨めではない。右往左往する政治人を叱咤激励するのは経済人であるという自負と、なによりも経済活動が国家の基礎であることの強い自覚なのだ。
 
(書き手)宇惠一郎 ueichi@nifty.com
 
※参考文献
『論語と算盤』渋沢栄一著 角川ソフィア文庫
『渋沢百訓』渋沢栄一著 角川ソフィア文庫

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