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- 逆転の発想(33)楽市楽座(織田信長)
市場規制撤廃の先見性
織田信長は岐阜城を居城と定めた永禄10年(1567年)と翌年、城下そばの加納の市場に「楽市・楽座」を命じる制札を掲げた。
内容は、市場に出入りする商人たちに領国内の通行の自由を保証し、店舗家屋ごとに課せられていた税の徴収を禁じ、それまで取引を仕切っていたギルド(座商人)の特権を排して自由売買を奨励した。さらに、市場活動への家臣の介入を禁じるという徹底した自由主義市場活性化策だった。
それまでも戦国大名たちの中には、近江の六角氏や駿河の今川氏らは楽市政策を行なっていたが、それは中世を通じて公家や寺社が独占していた商工業の権利を戦国大名たちが奪い、城下に商工業者たちを囲い込み富国強兵を図る狙いだったが、信長が目指したのはスケールが違った。
のちに信長は安土城に移ってからも同様の楽市楽座を推進している。岐阜に楽市楽座を設定したのは足利将軍を担いで上洛する直前であり、明らかに商業・流通という経済システムを推進力とした天下統一をプランしていた。中世から戦国時代にかけて支配的な重農主義からの脱却を目指し、都市を起点にした重商主義による国家運営を目指す。
街道整備と流通革命
同じ逆転の発想の流れで信長が進めたのは街道の整備である。戦国時代を通じて諸大名は道路の整備に消極的だった。隣国との間で激しい領土争いの戦争が続く中で、道路を整備すると敵軍がたやすく領地に攻め込むことになる。外部からの侵略を阻止するためにも、通行が不便な方がいい。地の利を生かして迎え撃ったほうが戦いに有利である。「守りの発想」なのだ。
信長は違った。天正元年(1573年)、戦国史上最強の山城とうたわれた北近江の小谷城に籠る浅井長政を攻めた時には、信長は時間をかけてまず道路を整備した。屈曲した街道を直線に引き直し、荷馬車がすれ違えるように拡幅し舗装した。結果的に軍勢の移動を迅速にし、小谷城を包囲し攻め落とす。「攻めの発想」なのである。古代ローマの街道整備と同じ発想だ。
皮肉なことに、信長が本能寺で明智光秀に討たれたあと、毛利勢と対峙していた豊臣秀吉が備中高松城から短時間でとって返して(中国大返し)、山崎の合戦で光秀を破ることができたのも、信長の街道整備があったからだった。
街道整備は軍事面の要請ばかりだったのではない。流通の活性化もにらんでいた。楽市楽座の命令の直後に信長は、領国内の関所を撤廃している。『信長公記』には、「都市、田舎の身分の別なく、人々はみな有り難く思い満足した」とある。
関所を往来する人、商品に掛ける関銭(関税)は戦国大名の重要な収入源であったから彼らに関所撤廃の発想はない。信長は、「ものが自由に流通した方が、余程、国の利益となる」と考えた。
抵抗勢力を抑え込む指導力
貨幣についても、彼の柔らか頭は自在にめぐった。当時、米、絹などが物流決済の通貨代わりだったが、信長は、中国からもたらされた銅貨での決済を推進した。しかし、市場では割れた貨幣や改鋳された粗悪な悪銭が出廻り、軌道に乗らなかった。選別されたきれいな貨幣以外は流通しなかったからだ。そこで信長はどう命じたか。
正銭と、割れ銭、欠け銭、改鋳銭との間のレートを決め、悪銭も流通させようとした。だが、この豊かな発想に市場がついてこられず頓挫、商品決済は元の米、絹などでの決済に戻った。金貨、銀貨など素材そのものが持つ価値に基づく決済と違い、政府の信用のみによるある意味で近代的な貨幣の流通は、一部江戸時代、本格的には明治時代を待たねばならなかった。信長は生まれる時代が早すぎた。
いずれにしても規制の撤廃には必ず抵抗勢力が生まれる。今世紀の始まりに登場した小泉純一郎内閣は数々の規制緩和、撤廃を実現したが、郵政民営化にしても最大の抵抗勢力は官僚機構だった。見渡せば、あなたの会社にも抵抗勢力としての官僚機構は存在する。「前例踏襲主義」と「既得権確保」が行動規範の彼らを打ち破るには、明確なビジョンと強烈なリーダーシップが不可欠である。
ビジョンとリーダーシップの二つを兼ね備えた信長は道半ばにして47歳で世を去った。彼が目指した夢の行方をもう少し見たかったと思うのは筆者ばかりではあるまい。
(書き手)宇惠一郎 ueichi@nifty.com
※参考文献
『織豊政権と江戸幕府』池上裕子著 講談社学術文庫
『日本の歴史11 戦国大名』杉山博著 中公文庫
『現代語訳 信長公記』太田牛一著 中川太古訳 新人物文庫