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- 逆転の発想(20) 責任追及より原因究明(地球物理学者・寺田寅彦)
日米の事故調査の違い
1985年8月12日、日本航空のジャンボジェット機が群馬県の山中に墜落した。乗員・乗客524人のうち520人が犠牲となる痛ましい事故だった。運輸省(当時)の航空事故調査委員会は、事故原因は、事故の7年前に同機が起こした尻もち事故後の後部隔壁の修理ミスにあったことを突き止めた。米ボーイング社と日航などの関係者20人が業務上過失致死傷容疑で書類送検されたが、いずれも不起訴となった。ボーイング社側が日本の捜査当局の事情聴取に応じなかったためだ。
当時、この事故を航空機事故担当として取材していた筆者は、不起訴の原稿を書きながらやりきれない思いが拭えなかった。「原因は明らかなのになぜ刑事責任が問えないのか」。
刑法学の理論では、過失であれミスの刑事責任を問うことによりミス防止の抑止力が働くことになる。だが現実には「お前が悪いんだ」と社会が溜飲を下げて、一件落着となる。効果は理論通りには働かない。
事故調査の目的について、米側では、「再発防止のために原因を追及すること」というのが不文律であることも知った。故意による事件ならいざ知らず、過失事故について刑事責任を問うのはあくまで日本の常識でしかなかった。
調査の目的は再発防止にある
物理学者の寺田寅彦は、1935年に書いた『災難雑考』という一文で事故と責任について考察を加えている。
当時、旅客機が九州の山中に墜落した。学者たちが集まって、あらゆる方面から考察し事故の第一原因を的確に突き止めた。補助翼を操作する鋼索の強度不足にあった。この調査の結果、事後に全ての機体についてこの鋼索の強度を増して同様の事故を防ぐことができた。そしてこう書いた。
〈しかし多くの場合に、責任者に対するとがめ立て、それに対する責任者の一応の弁解、ないしは引責というだけでその問題が完全に落着したような気がして、いちばんたいせつな物的調査による後難の軽減という眼目が忘れさられるのが通例のようである。これではまるで責任というものの概念がどこかに迷子になってしまうようである〉
さらに言う。〈はなはだしい場合になると、なるべくいわゆる「責任者」を出さないように、つまりだれにも咎(とが)を負わさせないように、実際の事故の原因をおしかくしたり、あるいは見て見ぬふりをして、何かしらもっともらしい不可抗力によったかのように付会してしまって、そうしてその問題を打ち切りにしてしまうようなことが、諸方面にありはしないかと思う〉
思い当たる方は多いだろう。航空機事故だけのことではない。製品の不具合、商取引の不調、そんなトラブルが起きるたびに、責任のありかの追及に躍起となるばかりで、責任者を突き止め処分したはいいが、同じトラブルが再発することはよくあることだ。
再発を防ぐことを、トラブル調査の第一の目的、眼目に据えるべきなのである。
トラブルは教訓の宝庫
また、寺田は、1933年に東北地方の三陸海岸を襲った昭和大津波の直後にも警告の文を書いている(『津浪と人間』)。三陸地方には、1896年にも津波で甚大な被害を出していた。わずか一万数千日前の記憶が教訓かされていないことを嘆いている。
〈津浪に懲りて、はじめは高い所だけに住居を移していても、五年たち、十年たち、十五年二十年とたつ間には、やはりいつともなく低い所を求めて人口は移って行くであろう。そして運命の一万数千日の終わりの日が忍びやかに近づくのである〉
昭和大津波を教訓に、三陸沿岸の町という町には万里の長城のような高い防潮堤が築かれた。そして78年後の2011年、津波はやってきた。鉄壁と思われた防潮堤を乗り越えて。人々は、防潮堤を過信して、寺田が警告した「低所に住むな」と言う最も大事な教訓を忘れ去っていた。
コロナウイルス騒ぎの中で思う。21世紀に入ってからでもMARS、SARS、新型インフルエンザと相次いで凶悪な感染症に見舞われてきた。果たしてそう言う災厄からわれわれは教訓を得て対応してきたのか。医療崩壊の危機が言われ、政府は国民に行動自粛を呼びかけるだけ。この間なんの対応も取ってこなかった。
今の騒ぎから、混乱の再発を防ぐ智恵を得なければならない。
最後に寺田の言葉を書いておく。
〈日本人を日本人にしたのは実は学校でも文部省でもなくて、神代から今日まで根気よく続けられてきたこの災難教育であったかもしれない〉
災難、トラブルから得るものは大きい。
(書き手)宇惠一郎 ueichi@nifty.com
※参考文献
『天災と国防』寺田寅彦著 講談社学術文庫