室町幕府草創期の歴史からその功績を消された武将、高師直(こうの・もろなお)の悲劇について考えてみる。
14世紀前半、鎌倉幕府の権威は衰え、倒幕に動いた後醍醐天皇の親政も3年で頓挫し、足利氏による室町幕府の開創と時代は目まぐるしく動く。
高師直は、鎌倉幕政期から、関東武士の棟梁・足利家の重鎮として仕えてきた。動乱の時代にあって足利尊氏(あしかが・たかうじ)の武将として、鎌倉倒幕、対南朝戦争に数々の武勲を挙げてきた。師直がいなければ、足利家の権力奪取はなかったといっても、過言ではない。
足利尊氏が征夷大将軍に任命され室町幕府を開くと、首相格の執事(補佐役)としてナンバー2の権力を振るう。いわば、創業オーナーの発展に尽くした忠節の番頭である。
しかし、幕府草創期の足利家には、複雑な事情があった。尊氏は将軍に就くと、軍事権と守護の任命権を行使したものの、政治の一線からは退き、土地争いの調停などの内政権限は弟の足利直義(あしかが・ただよし)に委ねた。
幕府は、将軍尊氏と、“三条殿”と呼ばれた直義の兄弟による二頭体制で運営されていた。師直は、尊氏、直義の二人の権力者の共通の執事として仕えた。
さらに複雑な事情は、尊氏の後継体制のトラブルだった。尊氏には、“お手つき”の側室との間に長子として男児がいたが、尊氏は正室への遠慮から、この子を認知せず寺に預けた。直義は、その子を養子として引き取り、育てることにした。
尊氏は正室の子、義詮(よしあきら)を後継に考えていたが、不遇の子の直冬が、対南朝の戦いで輝かしい戦果を挙げてしまう。
いつの世でも同じで、こうなるとお家騒動が持ち上がる。
番頭の師直が、オーナー兄弟の間でバランスをとれば後の悲劇はないけれど、仁義を重んじる武家の習いとして、当然に将軍・尊氏に忠誠を尽くす。実務官僚的性格の直義と、ことごとく対立するようになる。
直義としては、兄尊氏との政治闘争上、武闘派筆頭として政治力をつけてきた師直が邪魔になる。取り除こうと工作する。あることないこと悪事をあげつらい、尊氏に師直の執事解任を直訴、師直は所領を没収されたうえ謹慎させられる。
尊氏にしてみれば、不仲とはいえ直義は血の繋がったパートナー。兄弟でのいさかいの原因となる師直を切ることに躊躇はなかった。
足利家のために尽くしてきた師直としては浮かばれないが、これはまだ悲劇の入り口であった。 (この項、次回に続く)