【意味】
私は十五歳で学問を始め、三十歳でその基礎を修め、四十歳で人生の方向を定め、五十歳で天与の我が人生の使命を知り、六十歳で誰の言葉も素直に聞け、七十歳で想いのままに行動しても度を越さなくなった。
【解説】
孔子の生涯にわたっての学問姿勢や心の変化を述べたもので、論語の中でも後世の人々に大きな影響を与えた一句です。この句から、十五歳を『志学(シガク)』、三十歳を『而立(ジリツ)』、四十歳を『不惑(フワク)』、五十歳を『知命(チメイ)』、六十歳を『耳順(ジジュン)』、七十歳を『従心(ジュウシン)』という言葉が生まれました。
既に42講で取り上げましたが、日本の名著『言志四録』にも、似たような「少にして学べば、壮にして為すこと有り。壮にして学べば、老いて衰えず。老いて学べば、死して朽ちず」という句があります。
青少年時代に学べば、壮年になって為すことがある。壮年時代に学べば、老年になって気力が衰えない。老年時代に学べば、死んでもその人望は朽ちないという意味ですが、「人生如何なる時であっても、勉学の価値有り」という勇気を与えてくれます。
現代学問の特徴は知識の吸収を主眼としますが、これら二つの名言が示す学問の方向は少し意味合いが違います。やり直しの効かない一限人生だから、年齢世代に相応しい学問に取り組めということです。これを「年相応の修養処世の人間学」といい、修養学とは修行して個人の人格を磨く学問であり、処世学とは(人間は一人で生きている訳ではないから)世に対処するための学問になります。しばしば著名人の事件が報道され、「○○歳になってもあのような事件を起こすとは?」などと批判されますが、修養処世の学びが欠けていたからです。
人間学は「前言往行(ゼンゲンオウコウ)の学問」といわれ、一般的には古人の言葉や行動を学ぶ学問です。しかし90年間の人生では、青年期は成長し、壮年期は社会に貢献し、老年期には衰退臨終を迎えますから、人生の変化に相応しい学びが必要となります。
筆者の主宰する人間学読書会では、余命年数から逆算した「今・逆算法の学び」を心掛けます。刻々と消滅する余命の日々を自覚しますと、自然と掛け替えの無い有り難い日々となり、人々のお手本になるように生きてやろうとファイトが湧きます。
曹洞宗の『修証義』という経典に「人身を得ること難し、・・最勝の善身を・・無常の風に任すことなかれ」とあります。輪廻転生の世であるが、人間の命(人身)を授かることは滅多にない。この最も勝れた我が身(最勝の善身)を頂きながら、何もしないままに漫然と死期を待つような(無常の風に任す)生き方をするな・・という人生奮起の教えです。
「空高く 味を誇るか 柿一つ」(巌海)
数年前の作った句です。葉を落とした隣家の柿の木、木の天辺に赤く蒸れた柿が一つ。一陣の風に身を委ねる柿の命であるが、秋空高く堂々とした生命感が伝わってきます。