明智光秀の軍勢が本能寺を取り囲んだのは、六月二日の早朝であった。
本能寺の変の前後、徳川家康は奇妙な行動をとる。そこから「明智光秀による信長殺しの黒幕は家康」との憶測も出てくる。
変が起きる直前の天正十年(1582)五月、家康は信長の招待で安土城を訪れる。
この年の二月、天下統一作業を進める信長軍団は甲斐に攻め入り、三月、天目山に武田勝頼を追いつめて葬り去り、甲斐、駿河、信濃、上野の武田領を手中にする。
このうち駿河を安堵された家康が御礼のため安土城に信長と接見する形をとった。
甲斐と駿河の一部は、織田方に寝返り甲斐攻めの成功に貢献した勝頼の重臣・穴山梅雪に安堵(あんど)され、同様に梅雪も安土に上った。
信長は二人を、変の起きた六月二日に本能寺で茶会接待することを告げ、それまでの間、堺を見物するように命じる。
二人ともに領国を出てから側近だけを引き連れた“丸腰”の道中だった。
京と堺は近い。変当日の早朝、京都へ向け堺を出発した一行は、午後に謀反の報を聞き、急きょ道を伊賀越えに変え、それぞれ領国への脱出を目指す。
後世、家康寄りの書き物は、この時、家康は「信長公の恩義に報いるために、たとえ殺されても京へ上る」と主張したが、側近に説得されて脱出を決めたと書く。
これは作り話であろう。ずるいほどに冷静な家康が変後に丸腰での上洛という軽卒な行動をとるわけもない。京に向かおうとしたとすれば、上洛しても命の保証がある場合、つまり光秀と通じていること以外は考えられない。
ともかく彼は軍勢を指揮するために三河の本領を目指し、脱出に成功したのである。幕府成立後の諸本は「神君の伊賀越え」と危機一髪の脱出行を讃えている。
この伊賀越えで奇妙なことが起きる。ともに東を目指した梅雪の一行だけが盗賊に襲われ梅雪が殺されている。
三河へ戻った家康。信長の遺恨を晴らす建前なら光秀討伐の軍を起こすべきだが彼は動かない。山崎で豊臣秀吉と光秀が全軍を挙げて決戦に挑む十三日までまだ日があったにもかかわらずだ。
岡崎で評議が繰り返されたとされるが、結果的には先遣隊を尾張まで進めただけで、家康は山崎の戦いには参戦せず、観望を決め込む。そして、軍を東に向け、梅雪亡き後の甲斐、信濃を併呑してしまうのである。
「漁夫の利」どころか、明智の謀反を予め知り、信長後継の体制での地位確保に向け計画的かつ無駄な軍事衝突を避ける省エネ戦略で動いている。
となると、梅雪の死も家康の仕業であったと考えるのが合理的なのだ。
魑魅魍魎(ちみもうりょう)うごめく乱世に生き残るのに必要なのは、確かな情報の把握と非情の計画だ。家康はそれを実践し、まるで光秀の動きを予期していたかのように、天下の次の動きに備えている。 (この項、次回に続く)