政党政治の自滅
時事通信による最新の世論調査(11月10―13日実施)によると、岸田内閣の支持率は、前月より5ポイント減の21.3%と、2012年12月の自民党政権復帰後の最低を記録した。不支持率は53.3%で岸田政権発足以来最も高くなっている。首相の岸田文雄が打ち出した、所得税・住民税計4万円の減税案に対しても「評価しない」が51.0%と半数を超え、国民から完全に見限られている。
そうしている間にも円安は進行して輸入物価の上昇と実質的に目減りを続ける賃金で、国民の生活は苦しくなるばかりだ。GDP(国内総生産)もドイツに抜かれて第4位に転落した。国民は、一時的な人気取りのための減税ではなく抜本的な経済構造の変革を望んでいるが、政権は期待に応える術を持たないらしい。もはや首相は政局の主導権を行使できず、政権は袋小路に追い込まれている。
さて1930年代のわが国も、同じ閉塞の時代だった。長引く不況の中、軍閥の勃興で、政争に明け暮れる政党政治が自滅していった。そんな時代に「国民の視点」に立って軍の政治介入に抵抗した勇気ある男がいた。与党民政党随一の論客の斎藤隆夫(さいとう・たかお)である。
二・二六事件直後の国会での大演説
斎藤は、兵庫県出石の出身で、東京専門学校(現・早稲田大)の行政科を卒業後、弁護士資格をとって米国のイエール大で政治学を学ぶ。帰国後、1912年に地元兵庫県養父郡から衆議院選挙に当選。以来、戦後の1949年まで13期に渡り議員活動を続けた。憲政擁護の立場に立つ根っからの政党人だ。
二・二六事件(1936年)後に広田弘毅(ひろた・こうき)内閣が発足したが、組閣に関して軍が露骨に閣僚の人選に干渉したのは、前回書いた通りだ。
5月、事件後初の帝国議会が開かれる。微妙な時局にだれもが登壇を尻込みする中で、斎藤は、与党民政党を代表して、首相廣田の施政方針演説への質問に立った。それは質問には終わらない、民主主義と軍のあり方についての持論の激烈な吐露であった。「演説」は、1時間25分に及ぶ。
質問は、まず首相廣田が強調した「革新政治」について、「それは、(事件を起こした)青年将校たちが唱える『政治革新運動』とどこが違うのか」、と迫る。
「(世に流行する言論は)昭和維新などということを唱えるが、この無責任にして矯激(きょうげき)なる言動が、ややもすれば思慮浅薄なる一部の人々をして、ここにもかしこにも不穏の計画を醸成し、不逞(ふてい)の凶漢を出すに至っては、実に文明国民の恥辱であり、かつ醜態であるのであります」と時代のムードを俎上にあげ批判する斎藤。
軍の責任を問う「粛軍演説」
ここまでが質問(演説)の序論であって、この後、軍の責任を問う本題に入る。要約でしかお伝えできないのが残念なほどの熱弁が続く。斎藤の鋭い舌鋒は軍部大臣に向けられる。
「軍人の政治運動は、上は聖旨(軍人勅諭)に背き、国憲国法がこれを厳禁している。軍人は常に陛下の統帥権に服従し、(国に一朝ことあれば)身命を賭して戦争に従うものだ。軍人の教育訓練はもっぱらその方面に集中するべきであり、政治、外交、財政、経済等のごときは寧(むし)ろ軍人の知識経験の外にあるのであります」
6年前に濱口雄幸内閣がロンドン海軍軍縮条約の批准したことについて、「統帥権の干犯だ」として騒ぎ立てた軍部と野党政友会の犬養毅(いぬかい・つよし)ら政治家の主張を逆手に取った強烈な批判だ。巧みなレトリックで、軍部、野党の逆批判を封じる工夫がなされている。
この間、一部軍人、右翼による政治テロを軍が放置してきた結果が、二・二六事件に繋がった。現に、この度のクーデター未遂についても、軍は、青年将校たちを秘密軍事法廷で裁かざるを得なくなったが、「退廃した政治家たちに国を任せられない」という心情は、軍のトップも共有している。「真の粛軍とは、その軍が犯してきた誤りを正すことではないのか」というのが斎藤の大演説の趣旨だった。
翌日の主要新聞は、好意的に斎藤の演説を一面トップで報じ、国民からは斎藤に「よく言ってくれた」との感謝と励ましの声が殺到した。軍の横暴に、口をつぐむしかなかった国民の胸に響いたのだ。
であるが故に、軍部と政界からは、この後、斎藤の弁舌を封じる圧力も高まることになる。(この項、次回へ続く)
(書き手)宇惠一郎 ueichi@nifty.com
※参考文献
『回顧七十年』斎藤隆夫著 中公文庫
『評伝・斎藤隆夫 孤高のパトリオット』松本健一著 岩波現代文庫
『日本の歴史24 ファシズムへの道』大内力著 中公文庫