松平春嶽の上洛計画
幕末の混乱をおさめて近代日本の礎を築いた明治維新の最大の功労者は、薩摩藩と長州藩、それに土佐と肥前両藩を加えた薩長土肥というのが定番の歴史記述だ。しかしそれは武力による倒幕革命を成功させた勝者が書いた歴史でしかない。結果的に革命は戊辰戦争という内乱を引き起こし,下手をすると日本は英仏という二大勢力によって分断を招きかねないきわどいハードランディングだった。一方でスムーズに新体制を導くソフトランディングを目指す動きもあった。
文久3年(1863年)6月、福井藩主の松平春嶽(しゅんがく)は、城中に藩士たちを集めて、武装上洛の決意を明かす。
「皆のもの、よく聞いてくれ。この国難にあっては、もはや幕府だけにこの国を任せておくわけにはいかない。かといって宮中の公家たちは保身のみを図っている。わが越前松平家は国を救うために決起する。君臣一同、上洛し、わが藩が国政を掌握する。ついて来てくれるか」
十年前のペリー黒船来航以来、国内の空気は攘夷論に傾いていた。春嶽も当初、攘夷論を支持していたが、開国に踏み切った幕府筆頭老中の阿部正弘(あべ・まさひろ、1857年没)と語らううちに、攘夷の愚を悟り開国派に傾いている。
頑迷な攘夷論者である孝明天皇を担ぐ朝廷は、将軍・徳川家茂(いえもち)を京都に呼び出して「攘夷決行」を迫ることにしていた。攘夷勢力による幕府追い落とし工作だ。春嶽の武装上洛は、これを阻止して朝廷・幕府を和解させ、外様、譜代の区別なく雄藩の合議体による新政府の樹立を目指すことに狙いがあった
しかし、上洛決行直前に家茂が江戸に戻り、和解の機会は失われて上洛計画は幻と消えた。
挙国一致政府実現のために
幕末の攘夷運動は、倒幕のために勢力を結集するイデオロギーであって、実現性など誰も信じていなかった。やがて世間は、倒幕派と佐幕(幕府支持)派に二分されていく。その帰結が、倒幕中心勢力であった長州・薩摩軍による無益で国家崩壊の危険をはらんだ北侵戦争(戊辰戦争)となる。
春嶽は、それによる外国勢力の介入、日本侵略の危険を憂えていたのだ。実際に英国は倒幕軍に武器支援し、フランスは幕府を軍事援助している。
江戸時代の幕藩態勢は不思議な政治制度で、中央政府である幕府を動かす幕閣は、家康による政権樹立に功績のあった家臣たちの末裔である譜代大名から選ばれ、政治を行なった。越前松平家は、家康の次男で養子に出された結城秀康(ゆうき・ひでやす)を祖とする有力な親藩だったが、お家騒動を恐れてか、親藩には幕閣に連なる資格はなかった。もちろん外様の大名たちには、いかに有力な藩でももとより参政の資格はない。そのひずみが噴き出したのが幕末の混乱だった。
英明な春嶽はもちろん、幕府を見限ることはしなかったが、政治組織として制度疲労した幕府にも朝廷にも国政を一元管理する能力がないことも見抜いていた。その春嶽が打ち出したのが、外様を含む雄藩による合議体(議会)の形成と挙国一致政府の樹立だった。時代を先取りしていた。
俊才たちを生かす
春嶽はむろん、時代の現状と未来を見通すことのできた英明なリーダーだったが、英明さはそれだけではない。数々の藩士の俊才を見抜いて生かす、リーダーとして必須の才に恵まれていた。
藩政を任せた由利公正(ゆり・きみまさ)は、財政を大胆に改革し、藩内特産の生糸の輸出で財政を潤わせた。その財政論は坂本龍馬にも影響を与えた。橋本左内(はしもと・さない=安政の大獄で獄死)は、開国の必要性を早くから春嶽に説き、英米仏を牽制するためにロシアとの国交、同盟を提案している。
また、熊本藩士で公武合体論者だった高明な儒学者、横井小楠(よこい・しょうなん)の噂を聞きつけるや、相談役として招聘している。春嶽の上洛計画にも小楠が大きく関与している。
由利は、維新後の「五箇条の御誓文」の起草にも参画し、維新政府にも財政顧問格として取り立てられている。
春嶽自身は、維新後の新政府で内国事務総督、民部卿、大蔵卿などを歴任し、「明治」の元号制定にも関わっている。自らも明るく周囲を治めた。
(書き手)宇惠一郎 ueichi@nifty.com
(参考資料)
『日本の歴史19 開国と攘夷」小西四郎著 中公文庫
『攘夷の幕末史」町田明広著 講談社学術文庫
『日本の歴史 20 明治維新」井上清著 中公文庫