夢を形にする経営
私ごとで恐縮だが、週に一度、奈良東大寺の仏教講座に通っている。その講座で、寺の長老、狭川宗玄(さがわ・そうげん)師は、二年前に101歳で亡くなる1年前まで、用意された椅子を使うことなく、かくしゃくとして教壇に立ち、毎回、90分の講義を務められた。最晩年の講義後に、ある学生が、「長老、お元気の秘訣はいつもおっしゃっている腹八分目なのでしょうか」と問うた。
長老は講義ノートを閉じながら、「歳を取れば腹八分目どころか七分目やがね、人生を全うするにはそれだけでは十分ではないよ。日々、好奇心十二分目で過ごすことや。好奇心を失えば、もう生きている意味はない」。
人だけではない。頭脳としての経営者と手足としての社員の総合体に例えられることもある生命体としての会社組織も同じだ。好奇心を失えばいかなる長寿企業も生きる力を失う。
経営トップが常に好奇心を失わずにチャレンジを続け、社員に好奇心を失わないように仕向ける企業は永遠の生命を手に入れられる。
一地方の自動車修理工場から世界有数の自動車メーカーを育て上げた本田宗一郎(ほんだ・そういちろう)の人生を貫いていたのも、まさに尽きぬ好奇心だった。原動機付きバイクの製造販売から四輪車製造に進出、ビジネスジェット事業まで軌道に乗せたホンダの躍進を支えたのは、飽くなき好奇心で夢を形に変え、その好奇心を一人一人が持つことを社員に求め奨励した結果だ。
少年の夢を持ち続ける
その成功譚はよく知られているから細かくは触れないが、紹介したいのは、彼の好奇心に関するエピソードだ。
本田が最後の夢を託したのが航空機製造へのチャレンジだったが、彼の空への興味は古く小学校五年生に遡る。浜松で米国人パイロットの曲技飛行が行われると聞くや、動くものが何でも好きだった宗一郎少年は、約30キロの道のりを、父親の自転車を無断で持ち出して出かけた。入場料が足りず見学を拒否されると、近くの松の木によじ登って曲技飛行を見た。いつか空を飛びたいという夢は大きく膨らんだ。のちに自動車製造の社長業に追われる中、操縦免許を取得し、自ら操縦桿を握り大空に飛び出す。操縦する軽飛行機が田んぼに不時着することもあったという。夢を夢で終わらせない執拗なまでの好奇心を持ち続ける。
経営トップを後継者に譲った後も、80代になった宗一郎はスイスアルプスで、ハンググライダー、熱気球での飛行に挑む。周囲は止めたが、空への好奇心の強さがそれにまさった。少年の夢を終生もち続け、実現させてしまう。
「彼には奇妙な好奇心もあった」と、盟友の井深大(ソニー創業者)が証言している。火の玉現象に興味を持ち、新たなエネルギー利用の可能性を井深に熱く語ったという。宗一郎の好奇心の対象には際限がなかった。
チャレンジにつきものの失敗はとがめない
宗一郎が一代で築き上げた本田技研(現・ホンダ)では、旺盛な好奇心とチャレンジ精神が奨励された。社内での発明コンクールも毎年行われた。好奇心と、それに基づくチャレンジには失敗がつきものだ。宗一郎は決して失敗そのものを叱らなかった。彼が叱ったのは、犯した失敗を次に生かせず失敗を繰り返すことに対してだった。その伝統は今も社風として引き継がれている。
特異な創業者が築き上げた社風(企業のかたち)が生き続けるなら、企業は流転の社会を守り超えていける。大企業病に毒されて冒険心を失い、スローガンがただのスローガンに終わらない限りは、であるが。
(書き手)宇惠一郎 ueichi@nifty.com
(参考資料)
『わが友 本田宗一郎』井深大著 ゴマブックス
『夢を力に』本田宗一郎著 日経ビジネス文庫