紀州藩での実績を買われて
前回取り上げた後継者問題で知恵を尽くした八代将軍の徳川吉宗(とくがわ・よしむね)だが、彼の最大の功績は、危機に瀕していた徳川幕府の財政再建だろう。
第七代の家継(いえつぐ)が危篤に陥ったのは1716年(正徳6年)4月。幼い将軍はわずか8歳だった。当然に跡取りはいない。この事態を想定してグループ創業者の家康が周到に準備していた御三家制度が発動される。グループ本社に世襲候補がいない場合、子会社から後継者を選ぶ。御三家(尾張、紀州、水戸の三藩)の中で、格上の尾張藩からグループ本社社長を出すのが筋であるが、本社の取締役会メンバーである老中たちが白羽の矢を立てたのが、紀州藩の当主、吉宗だった。
決め手となったのが、大胆なリストラと財政計画で藩財政の立て直しに成功した吉宗の評判だった。創業から100年が経過し、本社財政は首も回らぬほどの危機にある。やむなく子会社二番手の社長の手腕に期待したのである。
家継が亡くなると、吉宗は、子会社から204人の家臣たちを連れて江戸本社に乗り込んだ。
吉宗は紀州時代から、本社の経営を横目で見ながら、問題点を把握していた。まずは機能しなくなっている取締役会(老中たち)の刷新だった。とはいえ、三河時代から世襲されてきた有力譜代大名たちの協議システムを壊すわけにはいかない。ただでさえ子会社から迎えた新社長への風当たりは強い。強硬策は禁じ手だ。吉宗は無能な老中たちから実質的な経営権限を奪うことにした。
まずは人事刷新
江戸本社に入るや、“暴れん坊”の異名を取る吉宗は、5人の老中たちを一人一人質問攻めにする。幕府の財政規模から江戸城の櫓の数まで尋ねたがまともに答えられるものはいない。この一件で世襲権威にあぐらをかいていた取締役たちの押さえ込みに成功する。
翌年、御前試験で最も成績の悪かった老中の首を切り、そこへ京都所司代(しょしだい=出張所長)だった水野忠之(みずの・ただゆき)を抜擢する。水野家は老中を輩出する家柄ではないが、会計の才があった。この人事は、旧来の家臣たちに吉宗の怖さを思い知らせると同時に、家柄より能力本位の人事が行われる希望を下級の家臣たちに植えつけることになる。
実際に吉宗は、各地の事情に通じた庄屋たちを積極的に採用し、新田開発や農民指導に積極的に採用する。また、それまで、家柄重視で俸給が決まっていた慣例にも手をつける。役職給を導入した。例えば、比較的俸給の低い旗本たちを能力に応じて抜擢し、職に応じて職にある期間、特別給を支給する。職から外れれば俸給は基本給に戻る。「足高(たしだか)」と名付けたこの制度によって、下級家臣の中から埋もれた才能を発掘し、家臣の間には出世への希望が生まれるという人事の好循環を生んだ。こうした人事刷新は紀州藩主時代の改革で効果が実証済みだった。
しかし、急激な構造改革は大きなリスクを伴うものだ。子会社社長の出身であればなおさら守旧派の反発を招く。吉宗は、それを曽祖父である創業者・家康の権威を利用することで押さえ込んだ。自ら乗馬をよくし、家康が趣味とした鷹狩りを頻繁に行い、家康の再来を譜代の大名たちに意識づけするパフォーマンスを繰り返した。日光東照宮に神として祀られる家康のひ孫のイメージを使った。
同族企業体の多くでは、疲弊した経営の立て直しに際して、創業者イメージを想起させる演出は、大きな効果を発揮するものだ。「創業の精神に戻れ」の掛け声とともに。
入るを量りて出ずるを為す
さて、吉宗に託された課題は財政再建だった。いつの時代でも財政の立て直しでの要点は、いかに収入を増やし、支出を減らすかにかかっている。「入るを量(はか)りて出ずるを為す」だ。
これを、襲名直後に老中に抜擢した水野忠之を会計担当に据えて、他の老中を抑え込んで実行してゆく。
収入増に関して吉宗は、もはや限界と思われた直轄地の新田開発に力を入れる。それまでに開発し尽くされたと思われた作付困難地を田畑に変えるために、新規農業技術の導入も熱心に行なった。また、安定して年貢を上納させるため、年々の作柄に関係なく、年貢の算定方式を一定させた。それだけでは凶作年に負担の重い農民の不満が爆発する。そこで凶作の年に農民が借り入れる金の金利を低減化する対策も取った。
また、一万石以上の大名からは、1%の上納米を幕府に収めさせる。これもそれだけでは諸藩からの不満が溜まる危険があるから、江戸への参勤交代の中止、大名にとって経費の掛かる江戸詰め期間の短縮をセットにする。荒技とも言える吉宗の新規政策は常に正と負のバランスをとって行われている。
支出減に関しては、倹約を徹底させ、自らも贅沢な調度の購入を控えて率先垂範した。
将軍に就いたとき、財政赤字は莫大だったが、商人からの借入金16万両の返済は、一括支払いと引き換えに3分の1に負けさせ完済する商才も見せている。就任7年で財政は黒字に転じ、10年後には米3万5千石、金12万7500両の純利益を計上し、財政は立ち直った。
そして社長就任13年目の1728年(享保13年)、「享保の改革」を成し遂げ改めて諸藩に武威を示した吉宗は、晴れて諸大名を引き連れ、軍事演習を兼ねた日光社参に出発した。
十五代続いた徳川商店の歴史で、吉宗はちょうど折り返しの八代目に当たる。絶妙の人づかいの術を伴っての構造改革だった。ただの暴れん坊将軍ではない。「徳川中興の祖」と呼ばれる所以である。
(書き手)宇惠一郎 ueichi@nifty.com
※参考文献
『歴史と旅 徳川十五代の経営学』秋田書店
『天下泰平の時代』高埜利彦著 岩波新書
『日本の歴史17』奈良本辰也著 中公文庫