徳川吉宗の苦悩
オーナー企業というものは、血統、しかも長幼の序で後継者を決めていくから、子供たちの間に優秀な人物が見当たらないとなると一気に危機を迎える。史上最大のオーナー企業グループに成長した「徳川商店」もいくたびか、存続が危ぶまれる場面を乗りきってきた。十五代にわたり、親から子へと世襲制度にのっとって機械的に巨大組織の経営権を引き継いできた訳ではない。暗愚な後継者出現、血統の枯渇に備えた装置が巧妙に準備されていた。
第八代将軍の徳川吉宗(よしむね)も悩んでいた。大岡越前守忠相(ただすけ)の補佐を得て江戸幕府中興の祖として誉れ高い将軍も後継者には恵まれなかったのである。
吉宗には、無事に育った男子が三人いた。嫡男がいれば彼に将軍職を継がせるのが家康の定めたルールである。ところが嫡男の家重(いえしげ)は幕府の最高責任者を担うだけの器量がなかった。生まれつき病弱で酒食に溺れ、その上、言語不明瞭で側近たちもその指示を理解できず戸惑うばかり。吉宗は高名な学者を家重につけて特別講義を施し、たまには鷹狩りに連れ出して、剛毅の風を体得させようとしたが、そんな帝王教育にはまったく興味を示さず大奥に引きこもってしまう。
そんな家重に比べて弟の宗武(むねたけ)、宗尹(むねただ)は聡明で将軍職の後継者としてうってつけだったから始末が悪い。いつしか吉宗は病弱の家重の寿命が尽きるのを期待するようになる。しかし、ストレスがない分、家重はのらりくらりと生き続ける。
人心一新のためにも代替わりを急ぎたかった吉宗だが、その治世は一年、また一年と延び、30年におよんだ。
側用人を送り込む
吉宗は62歳でついに将軍職を家重に譲った(1745年)。家重はすでに35歳。あまりに遅い譲位だった。もちろん吉宗は大御所として君臨し、家重を政治の前面には立たせない。会社で言えば取締役に当たる「老中」という役職が江戸幕府にはあったが、江戸時代の中期ともなれば、三河時代以来の譜代の重鎮の家柄による世襲を重ねた老中システムは制度疲労を起こしている。まともな人材がいない。
そこで吉宗が目をつけたのは、旗本・大岡越前の一族で俊英の大岡忠光(ただみつ)だった。彼を御側申次(おそばもうしつぎ)として送り込む。臨時の秘書官役だが、吉宗は将軍代行の権限を与えて幕政を取り仕切らせる。
家重の三歳年上だった忠光は、吉宗死後は老中権限を凌ぐ側用人(そばようにん)大名となり、実質的な将軍代行となる。年貢取立てで農民から不満の直訴があると、将軍の名で地方の勘定方役人を罷免し、経営不良の大名の改易も断行した。嫌われ役、汚れ役に徹して幕藩体制の引き締めに専念した。
将軍職継承の原則は守りつつ、暗愚な将軍に実権をわたさずに危機を乗りきることに成功する。家重の治世は15年。短期間であればこそ社長代行制は有効であった。荒療治である。こうした代行制度は、代行者に野心がなく、創業家への忠誠心が高い旗本だからこそ成し遂げられた。しかも旗本は、家柄だけに頼る取締役(老中)にはない実務への明るさがある。
忠光の抜擢は、吉宗の慧眼(けいがん)のなせる技でもあった。老舗における暗愚社長補佐体制の参考となるかもしれない。
御三卿の創設
吉宗は、こうした短期対応策だけではなく、長期的視野に立った「徳川商店」の危機対応への手も打っている。大組織を引き継がざるを得ない愚鈍な長兄に対して英邁(えいまい)な弟二人の存在という体験から生まれた「御三卿(ごさんきょう)」制度の創設である。
二男の宗武に田安(たやす)家を、四男の宗尹に一橋(ひとつばし)家を、家重の二男である重好(しげよし)に清水家を創設させ、江戸城住みの独立分家としたのだ。創業者家康の近親を祖とする御三家(紀伊、尾張、水戸)とは違って領地は与えず部屋住みではあるが、家格は御三家より上に置き将軍の相談役としての役割を与えた。一旦事あれば将軍を輩出することも可能にした。
御三家に加えて、徳川ファミリーをさらに拡大し結束させる役割を果たす。吉宗以降、十一代将軍には一橋家から家斉(いえなり)が、十四代には紀伊家から家茂(いえもち)が、そして幕府最後の十五代には、水戸家から一橋家へ養子に入った慶喜(よしのぶ)がそれぞれ跡目を襲い、御家断絶の危機を救った。
吉宗自身も、紀伊徳川家の出身で、将軍家の血筋が途絶えた後、迎えられて将軍となった経歴がある。
受け皿を広く取り、後継者はグレート徳川ファミリーから輩出し続ける。その積み重ねが十五代続く老舗の実相なのだ。
(書き手)宇惠一郎 ueichi@nifty.com
※参考文献
『歴史と旅 徳川十五代の経営学』秋田書店
『日本の歴史17』奈良本辰也著 中公文庫