「天下三分の計」の大号令
第一次世界大戦の特需ブームにうまく乗り、急発展を遂げた鈴木商店だが、この時期、大番頭として同社の経営を率いた金子直吉は、「天下三分の計」という指令を全店に発している。〈一気に三井、三菱という大財閥に追いつけ、そして追い越せ〉との大号令だ。
大戦中にロンドン駐在員だった高畑誠一(創業者・鈴木岩治郎の娘婿)あてに送った手紙が残っている。
「今、当店の為し居る(なしおる)計画は、すべて満点の成績にて進みつつあり、お互いに商人としてこの大乱の真中に生まれ、しかも世界的商業に関係せる仕事に従事しうるは無上の光栄とせざるを得ず、即ち戦乱の変遷を利用し大儲けを為し、三井三菱を圧倒するか、然らざるも彼らと並んで天下を三分するか、これ鈴木商店全員の理想とする所也」
金子の意気込みと自信が伝わってくる。実際に、鈴木商店の年商は、開戦の年である2014年には1億円だったものが、2017年には15億円と3年で15倍に急拡大している。同じ年の三井物産の年商は12億円で、念願の逆転を果たしている。
倒産は急成長のツケ
金子直吉は土佐(現高知県)の貧しい商家に生まれた。学校へも行かず11歳から紙屑拾いを始めたあと乾物屋に丁稚奉公に出て、商人としての成功を目指し、神戸の鈴木商店に入った。苦労の中で商道を身につけた。
三井、三菱という大財閥が、明治政府の富国強兵策に取り入って殿様商売で膨張するのを横目で見ながら、己の才覚だけを信じ、創業家を立てつつ事業拡大に邁進してきた。いよいよ自分の時代が来たと興奮しただろう。しかしそこから運命は暗転する。
第一次大戦の終結で特需はしぼみ日本経済は反転して不況に突入する。不景気のさなかに富山で勃発した米騒動は全国に波及し、1918年に神戸では、「鈴木商店が米を買い付けている」とのデマが流れて、本社が焼き打ちにあった。これが鈴木商店=成金のレッテル貼りに繋がった。関東大震災(1923年)による大混乱の中で、成り上がりイメージの鈴木商店は経営不振に陥る。
さらに火の手は台湾から上がる。前回書いたように鈴木商店発展の足がかりは、台湾特産の樟脳の独占販売権の獲得だった。鈴木商店は運用資金の大半を台湾銀行の融資に頼っていた。そのメーンバンクが資金不足に陥るや、三井銀行は同行から資金を引き上げたため鈴木商店への資金援助は打ち切られ、1927年4月、鈴木商店は倒産してしまった。
鈴木商店は急成長の陰で、台湾銀行の融資に過度に依存し、資本金も創業当初のままで資産形成を怠っていたのが経営不振の原因とされる。急成長の歪みが噴き出したことになる。
死んで残すもの
倒産当時、鈴木商店の傘下企業はおよそ100社あったが、日本製粉は三井物産に、化学工業部門は三井鉱山に買収された。三井の台湾銀行からの資金引き上げの真相は不明だが、結果として新興の鈴木商店の大財閥への挑戦、大番頭金子直吉の夢はついえたのである。
鈴木商店の倒産後、経営幹部たちは再興を期して、営業部門を傘下の商社・日本商業(日商、日商岩井を経て、現・双日)に移した。グループ企業再構築の試みは戦後も続いたが実現しなかった。
現代の諸葛孔明が描いた天下三分の計は、ついに日の目を見ることがなかったが、金子が手がけた企業群のスケールの大きさは、今も残る企業名から偲ぶことはできる。
日本製粉(現・ニップン)、クロード式窒素工業(現・三井化学)、神戸製鋼所(現・同)、播磨造船所(石川島播磨重工業を経て現・IHI)、帝国人造絹糸(現・帝人)、豊年精油(現・J -オイルミルズ)、太陽曹達(現・太陽鉱工)。
「虎は死んで皮を残し、人は死んで名を残す」のである。
(書き手)宇惠一郎 ueichi@nifty.com
※参考文献
『日本の15大財閥 現代企業のルーツをひもとく』菊地浩之著 平凡社新書
『財閥の時代』武田晴人著 角川ソフィア文庫