対立から交渉へ
歴史には時代を動かす原理が大きく変わる節目があるものだ。リーダーは、その潮目を的確に読み対応することが求められるが、それだけでは十分ではない。幅広い視野を持って、他に先駆けて新時代到来を見抜き、それまでの常識にこだわらず、先に主導権を握って動いたものが勝利する。能登半島地震の波乱とともに開けた2024年の連載は、古今東西の歴史をながめ渡して、転換期に指導力を発揮したリーダーたちの成功の秘訣を探る。
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アメリカ合衆国の第37代大統領、リチャード・ニクソン(1969年1月〜 1974年4月在任)は、退任のきっかけとなったウオーターゲート事件の印象が強すぎて負の側面ばかりが語られがちである。しかし、大統領在任期間を通じて、外交面で大きな成果を生み出したことは無視できない。米中国交正常化、米ソ間のデタント(緊張緩和)、ベトナム戦争の終結など、イデオロギーにとらわれない現実外交を展開し成功に導く。
ニクソンが大統領に就任した1969年、米国外交は限界に達していた。第二次世界大戦で壊滅的な打撃を被った欧州と日本の経済は立ち直り、共産主義中国は経済的にはまだ微力ながら政治的存在感を増してきた。戦後世界を東西冷戦の構図で捉え、強大な軍事力と経済力を背景に、世界唯一の“警察官”として国際紛争を取り仕切ってきた米国のパワーも絶対のものではなくなりつつあった。
そこでニクソンは、平和構築のための積極的な現実外交を掲げてデビューする。大統領就任演説にその方針が如実に現れている。
「対決のときを経て、われわれは交渉のときを迎えている。この政権下では、全ての国々に対話の扉が開かれていることを知らせよう」
キッシンジャーの登用
この演説は米国社会にとってある意味でショッキングだった。彼の出身母体である共和党は、共産陣営との力の対決による勝利を信奉していたし、外交を取り仕切る国務省でさえ、体制対決が揺るがぬ基本方針だった。さらに、ニクソン自身が、タカ派の急先鋒だったからだ。しかし、ニクソンは、世界を、そして戦後の歴史の流れを見据えれば、外交の一大方針転換が必要であるという基本方針に揺るぎはなかった。
ニクソンが打った手は、古い対決概念にとらわれている国務省から、ホワイトハウス(大統領府)に外交の主導権を移すことだった。そのために、これまでタカ派のニクソンを鋭く批判し続けてきたハーヴァード大学教授のヘンリー・キッシンジャーを国家安全保障担当の大統領補佐官に任命する。
ニクソンとは水と油の関係と見られていたキッシンジャーにしてみれば、ニクソンがタカ派であるからこそ、対話に向けた外交新基軸を本気で推進するなら、その実現はより容易だろうと考えたのだ。
ニクソンがタカ派であるからこそ、タカ派の反発を抑え込むことができる。ハト派リーダーが平和外交を推進しても国内強硬派の反発が燃え盛り、物事は進まない。これは古今を通じた政策推進の要諦だ。もちろん外交だけではない、世の真理だ。
こうして、ニクソンとキッシンジャーの二頭立ての馬車による、米国の新外交政策は動き出す。
リーダーになる前に経験しろ
キッシンジャーは、指導者と経験の蓄積について面白いことを言っている。
「指導者が経験を積むうちに深みを増すと考えるのは幻想である。(中略)指導者が高い地位につく前に得た確信というのは、知的な資本であり、その地位に留まる間、この指導者はこの資本を消費することになる。指導者となれば沈思熟考している暇はない。重要なことより、緊急なことが絶えず優位になる」。リーダーの地位についてから経験から学ぶことなどできないのだという。
ニクソンが発案した新思考外交は、思いつきではない。彼は、1960年の大統領選挙でジョン・F・ケネディに僅差で敗れたあと、「学習と研鑽を重ね」、各国の指導者と合い、外交方針の一大転換の構想を組み立てていた。ベトナム戦争の早期終結、米ソの緊張緩和…そして時は熟した。
(書き手)宇惠一郎 ueichi@nifty.com
※参考文献
『キッシンジャー秘録 1ワシントンの苦悩』ヘンリー・キッシンジャー著、小学館
『ニクソンとキッシンジャー』大嶽秀夫著 中公新書