ハンガリー首相のネーメトは、東西世界を隔て続けてきたオーストリアとの国境ゲートを全面的に開放する機会を慎重に準備してきたがタイミングがつかめなかった。好機は意外なことから訪れる。
民間団体が、“鉄のカーテン”に風穴を開けたハンガリー政府の決断を祝うために、あるイベント企画を打ち出したのだ。
「汎ヨーロッパ・ピクニック」と名付けられた企画は、8月19日の一日だけ国境のゲートを開き、オーストリアとハンガリーの両国民がゲートの両側で互いに交流しようというものだった。
企画の申請を受けたネーメトは、「これは使える」と直感した。ハンガリー国内には、あわよくば西側への逃亡を狙う15万人もの東独からのバカンス客たちが、帰国せず滞留している。「彼らをピクニック当日に国境へ誘導すれば、一日だけ開かれているゲートから西側へ脱走するだろう」。ネーメトは国境警備隊に、東独市民の国境通過に手出ししないように指示する。
当日、国境ゲートを挟みワインを飲み民族ダンスに興じるお祭り騒ぎにまぎれて、東独市民600人が「自由万歳!」を叫びながら走って国境を越えた。国境警備隊は見て見ぬふりを貫く。そして待ち受ける西独当局者に保護されて西独へ向かう。
東独政府の抗議に対してハンガリーは、「国境イベントでの不慮の出来事」として取り合わなかった。ソ連からは何の動きもない。ゴルバチョフはウズベキスタンなどソ連国内で起きる自由化要求を弾圧するのに終われ、ハンガリーの動きに対処する余裕はなかった。
ハンガリー政府の幹部会は、「もはや歴史の流れはだれにも止められない」として、オーストリア国境の全面開放を決定する。
密使をベルリンに送り込み、東独政府に国境開放方針を告げる。
9月11日に国境ゲートが開かれると連日、ハンガリーを経由して、数十万の東独市民たちが大脱走を始める。
東独は国境を全面閉鎖したが、11月9日、ベルリンの壁が崩壊し、ドイツは西独首相コールの指導力で一気に統一に向かう。
東欧諸国は次々と民衆が立ち上がり社会主義政権を打倒する。1991年12月、ソ連が69年の歴史に幕を下ろした。
武力を伴わず、大変革は起きた。影の立役者のネーメトは、激動の1989年を振り返る。
「世界で起きた変革は民衆の手によるもの。私は、流れを見極め決断したにすぎない」