最近、あちこちで「雑談力」の文字を見掛ける。ビジネス・チャンスにつながる有効な「雑談」をするにはどうすればよいか、ということだろうか。そうなると「雑談」ではなくなるというのは僻目か。
昔、昭和天皇が皇居内を散策中、侍従が「だいぶ雑草がはびこってきましたので、近いうちに掃除をしておきます」と申し上げたら、「世の中に『雑草』という草の名はない。それぞれに意味があって生えているのだから、無闇に抜かないように」とお答えになったとのエピソードがある。
どこにも所属、ないしは分類できないものに「雑」と付けるのは、身近なところでは会社の経費の勘定科目の「雑費」だろうか。この考えはかなり古く、今から1200年以上前に編まれた日本最古の歌集『万葉集』にも、恋歌、哀歌、挽歌などに分類不能なものを「雑歌」としている。この場合は「ぞうか」と読むが、意味することは一緒だ。
「雑」にはもう一つの意味があり、物事をきちんとしない様子を指すのは周知の通りだ。「雑用」は、どちらの意味も持ち合わせているのかもしれない。どんな用事でも、する方の心構え次第で「雑」にもなれば「丁寧」にもなる。
数十年前までは「ぞんざい」という言葉も生きていたが、もはや「死語」となったようだ。現在、あちこちで持て囃されているいる「雑談」の「雑」は、どちらに分類されるのだろう、とつまらないことを考えているうちに、「雑談」の代わりに「世間話」という言葉もいつしか使われなくなったことに気付いた。もっと砕ければ「世間の噂」、「与太話」などの言い方もある。ビジネス・シーンでの「与太話」はないだろうが、「雑談」の種類はいくらもある。本当にどうでもいい話題もあれば、話す人の人柄や教養を匂わせる話題。近年求められているのは後者であるのは間違いのないところだが、これとて一朝一夕に身に付くものではない。「雑談」と「教養」は、一枚の紙の裏表だからだ。
今は「油を売る」とはあまり良いイメージの言葉ではない。しかし、江戸時代に灯し油などに使っていた油は粘性が高く、升で量り売りをしてお客の器に最後の一滴までを垂らすには時間がかかる。その間に、世間話をするのが語源と聞いた。「油を売っている」の話題によっては、次のビジネス・チャンスを拾うこともあっただろうし、あちこちを廻って歩く「油屋」は恰好な情報源でもあっただろう。
「オヤジギャグ」という言葉が一般に浸透してずいぶん経つようだ。昔流に言えば「駄洒落」の範囲が、今は失笑、嘲笑の的になっている。しかし、なかなかどうして、頭の回転が速くなければ出て来るものではない。日本には「洒落」、「地口」という言葉遊びが古来よりあり、海外のジョークと同様に国民性を現わす文化の一つの物差しでもある。平たく言えば「同音異義語」を数多く知っていれば「駄洒落」の数も増えることになり、語彙が豊かな証明でもある。それが、いつの間にか馬鹿にされる対象になった。こうした経緯を知らずに「オヤジギャグ」を「寒い」などと言えたものだろうか。
もう一つ言えば、「雑談」とは卑俗な話ばかりがテーマとは限らない。特に、社会的な地位の高い人は一流の教養人でもあり、知識が豊富だ。こちらがにわか仕込みや付け焼刃で臨んでも、恥をかくのが関の山だ。
対談や雑誌のインタビューなどでよくあるケースだが、求められているテーマよりも休憩時間に交わす会話の方が面白い。緊張から解き放たれ、テーマに縛られずにお互いの人柄を知るような話ができるからだろう。「雑談」は中身を「雑」にしてはいけないのはもちろんだが、重要なのは相手の「人柄」ではなかろうか。一流の経営者は、数分の雑談で相手の人柄を見抜く眼力を備えている。うわべだけの人間なのか、これから育つ人なのか。その過程を通り過ぎてきた人なのか。無難な「天気」や「季節」の話の次に、どのような話題を持ってくるかでその人の性格や観察力、人柄もわかるのだろう。
30代と60代とでは重ねてきた経験も違えば持っている教養も違う。雑談の中で「スポーツ」「美術」「食事」「旅行」など相手の得意な分野の話題になった場合、生半可な知識や適当な合槌よりも、相手の懐に飛び込み、その興味や関心を引き出すのも一つの方法だろう。自分の知識を披歴した相手は満足するだろうし、こちらが持たない知識を教授してもらえる場合も多い。
問題は、それをどう次につなげるか、だ。こうした方法が許されるのはある程度の若さまでの「年代」であるとお考えかもしれない。私は、そうではないと思う。70代、80代でも、未知の分野の話題に好奇心を持って耳を傾けることができるかどうか、は大きい。相手には、懐の深い大きな人物に見えることだろう。
人には「話す」喜びと「聴く」楽しみがある。この両者をバランスよく、時に応じて使い分けることができるのが、「雑談」が持つ人間の力ではなかろうか。