【意味】
忠告をする者は、できるだけ虚心坦懐で臨むべきである。
【解説】
「忠言は耳に逆らう」という言葉があります。
忠言とは忠告のことですが、中心の心を言うと書きます。
その忠言に諌める心が伴ったものが諫言になります。
忠言や諫言は、する側もされる側もいずれもが不完全な人間同士のすることですので、慎重さを要します。
相手に良かれと思ってすることも、こちら側の伝え方や相手の捉え方次第では、
以前の状況よりはるかに険悪な修羅場を招く危険があります。
強固な信頼関係で結ばれた君臣の関係でも、一言の諫言で崩れた例も数多くあります。
茶の間のドラマで人気がある水戸の黄門様は、実に見事に悪人を成敗し、その後その地の殿様に忠告をなさいます。
この場合、天下の副将軍が格下の若い殿様にする忠告ですから、スムーズに受け入れられるようです。
しかし忠言や諫言はその逆で、格下の者が格上の者に忠告することになりますから、大きな勇気と困難が伴います。
このため中国では『諫義大夫(かんぎだいふ)』と呼ばれる君主に小言を言う専門役職までありました。
いかに名君といえども臣下からの諫言なしでは治世の持続は困難であり、いかに信頼を得た名臣でも
簡単には主君に諫言できない難しさがあるからこそ、このような役職が設けられたものだと思います。
一般的な忠言・諫言に関する名言は、受けた側の心の素直さを説くものが多いのですが、
掲句は忠告する側の気配りの心構えを説くものです。
普通は意にそぐわない部分があるから忠告するわけですが、この感情を忘れ虚心坦懐で行えというのです。
人間は相手に対して面白くない感情があると、どうしても心の底に怒りや押しつけの気持ちが生れますが、
これでは虚心坦懐の忠告にはなりません。
でき得るならば、いかに正論の忠告であっても一呼吸を置いて、
こちらの面白くない心を整理した後に行う配慮が必要ということです。
天下の大聖人の孔子様も、「信じられて後に諌む。いまだ信じられざれば己を謗ると為す」
と忠告に対して慎重さを求めています。
信頼感がない状態での諌めは、非難と受け取られるだけで相手の反発心を起こし、
時には思い掛けない反撃を招くことになります。
韓非子にも「人主も亦逆鱗有り。説者能く人主の逆鱗に嬰るること無くんば、則ち幾し」とあります。
逆鱗とは龍のあごの下の逆さの鱗(うろこ)ですが、その逆鱗に触れると怒り心頭の凶暴な龍に変ります。
君主や社長も似たような逆鱗がありますから、具申の際にはこれに触れないようにしなければなりません。
とは言っても、反撃を恐れて正論を吐くことを躊躇し、甘言や佞言(いずれもオベッカ)が飛び交う組織や社会でも困ります。
やはり勇気を以て正論を心掛ける一方で、相手に理解してもらう心遣い(虚心坦懐もその一つ)が必要だと考えます。