後白河法皇から権力奪取
平清盛は軍事力を背景に朝廷内での勢力を高めていくが、高倉天皇即位の後に院政を敷く後白河法皇との権力抗争は激化してゆく。
持ちつ持たれつで推移する二人の関係の決定的な転機は、高倉天皇に嫁がせた清盛の娘、徳子に言仁(ときひと)親王が誕生したことだった。このまま行けば、言仁親王が次期の天皇となり、祖父である清盛が外戚として朝廷を取り仕切ることになる。危機感を覚えた後白河は、思い切った人事に打って出る。自らの側近の子の藤原師実(ふじわら・もろざね)をわずか8歳で権中納言に抜擢した。息のかかった師実を将来、関白とし、「清盛の好きにはさせぬ」として牽制する決意を鮮明にしたのだ。
売られた喧嘩は買うしかない。清盛の動きは早かった。ひと月後の治承3年(1179年)11月14日、清盛は数千の兵を率いて、拠点の福原(神戸)から京都の西八条にあった平氏の館に入り、後白河の院政を停止させ、鳥羽殿に幽閉する。軍事力を背景にした政変だ。後白河の側近たちも朝廷から追放する。そして摂関家で意を通じた藤原基通(もとみち)を大納言に昇進させて関白に起用した。後白河による清盛追い落としの野望を事前に阻止した。
ここに平氏一門による専制がはじまる。
清盛による天皇中心の改革構想
専制とはいえ、清盛には平氏が朝廷中心の権力構図とって代わる野望はない。朝廷(天皇)が持つ〈権威〉を押し立てて、軍事力を背景にする武士政権が〈権力〉を行使し諸国を統治するという構想だった。それなくしては、荘園の乱立と、中央から分離しようとする東国の地方領主の抵抗で乱れた国家の統一を取り戻すことはできないと見ていた。
〈権威〉と〈権力〉の両輪による新たな中世的な支配構図の創始である。そのためには、両輪の一つである朝廷の運用について院政を排除し天皇中心の権威を確立する必要がある、と清盛は考えた。狙いは明確だ。翌年2月には、言仁親王を天皇に立てる。安徳天皇、一歳半での強引な即位劇だった。
権力を握った清盛は、まず国府(地方行政府)を通じた地方統治に乗り出す。それまでも国府は存在しながら土地支配に関しては機能しなくなっていた。それを活性化させることで国家による土地支配の一元化を目論んだ。清盛は知行国主として平氏の有力な家人を送り込む。全国の半分の30数か国が平氏の知行国となる。国主を通じて、地方の土地支配者である地頭と呼ばれる武士たちを組織する狙いだった。
後継者に恵まれず
しかし、東国においては地方領主、武士たちの経済的自立は予想以上に進んでいた。「中央からやってきた国主たちは自分たちの土地支配の権利を認めるのか否か」が彼らの判断材料となった。地方武士たちが平氏に突きつけたのは、「彼らは中央の搾取者でしかない」という反発だった。同じ武士でありながら平氏は味方ではないとの反発が広がっていく。荘園を奪われた寺社の不満と反発も強まる。
清盛が権力を奪取し改革に乗り出した時にはすでに61歳。手元に取り込んでいた高倉天皇も、上皇となり翌年に世を去る。孤立無援となり焦る清盛はますます専制を強めてゆく。
焦りに拍車をかけたのは後継者に恵まれなかったことだ。朝廷工作を任せた息子の宗盛(むねもり)は野心家ではあったが清盛のような政治的能力とカリスマ性を欠いていた。公卿たちが平氏から距離を置くのを留められなかった。東国武士のみならず、寺社、朝廷までも清盛の改革構想を見放す。高倉上皇死去によって後白河法皇が院政を再開し、翌月、清盛は失意のうちに世を去る。
平氏を見放した東国武士たちが、地方領主の利益代弁者として担いだのは、源頼朝。朝廷も寺社も「平氏憎し」の思いを頼朝に託す。その頼朝が、清盛が思い描いた朝廷を権威とする武家政権を開くことになる。頼朝は、平治の乱で死罪をなるところを清盛に見逃されて伊豆への配流で生き延び、清盛の夢を実現した。歴史の皮肉である。
(書き手)宇惠一郎 ueichi@nifty.com
※参考文献
『平清盛 天皇に翻弄された平氏一族』武光誠著 平凡社新書
『平清盛 「武家の世」を切り開いた政治家』上杉和彦著 山川出版社
『日本の歴史6 武士の登場』竹内理三著 中公文庫