【意味】
人間の出来ている人は、泰然として高慢ではない。人間の出来ていない人は、威張り散らして落ち着きがない。
【解説】
卑劣な手段で人に迷惑を掛け、周りに威張り散らす者は、知らず知らずに敵を作ります。敵が多くなれば身を守る手段を考えなければなりません。
随分前に、際どい生き方をする団体のトップの私邸前を通りました。その邸は有刺鉄線付き塀や頑丈な門で守られ、当時個人の家では珍しかった防犯カメラまでが付けられた豪邸でした。平和な時代に「この要塞の主は、心の休まる時があるだろうか?」と思うと哀れでした。
多くの人々を威嚇し苦しめる組織のトップに上り詰めるには、その者なりに命を懸けた場面もあったろうに、生きる土台が間違っていたために気の毒な生活となってしまったのです。悔悛のチャンスに勇気を出せず深みにはまり、多くの若者を組織に引きずり込み、親や子供まで世間に顔向けできない悲しい思いをさせる。何か縦横に張り巡らされた有刺鉄線が、その家族の深い哀しみを包み込んでいるような雰囲気を感じました。
「円満なる者に、百福自ずから集まる」(俗諺)とあります。威嚇や暴力は当然ですが、仮に我が子や部下の指導であっても怒り心頭になるようではいけません。自分修行ができていないから心の底が浅く、些細なことで怒り感情が溢れ出るのです。それは指導効果が出ないばかりでなく、はた迷惑で周りの雰囲気も悪くします。
人物の出来た者は掲句の通り「君子は泰すらかにして驕らず」が基本となります。部下の失敗の度に頭にきて言葉が厳しくなるようでは、人物器量不足の上司といわざるを得ません。
ならば謙遜すればよいのかとなりますが、謙遜のサジ加減は微妙です。評論家亀井勝一郎氏は「謙遜ということは、一歩誤れば卑怯な手段になる」と警告します。
特に日本人の場合は謙虚さを通り越して、自己の安泰や責任回避を図るために安全な場所に身を潜めることが多いようです。威張る者も困りますが、このように自己安泰を狙った謙遜を装う者も始末に困ります。
威張っても困る、過剰な謙遜でも困るとなれば、生きるべき選択の領域が無くなるとの声も聞こえます。しかし心配はいりません。「円満なる者に、百福自ずから集まる」ですから、トイレに行く度に笑顔創造の修行を繰り返し、堂々とした円満顔の練習を癖とすることです。
これを「日常生活の隠れた修行」といいますが、10年20年と修行が積み重なりますと、円満顔相が黄門様の印籠のような効力を発揮し、周りの人から自然に親しまれることになります。
「美醜を通り越した円満顔相は、人間社会の通行手形なり。
その顔相は、トイレ手洗いの際の鏡修行により造られる」(巌海)