「いっこくもの」。インターネットの検索画面でこう入力すると、最初に出てきて、最も多いのは「一刻者(いっこもん)」という焼酎に関する情報だ。「一国者」よりも遥かに情報も多い。使わないことばの検索順位が下がるのは当たり前のことで、文句を言ういわれはない。
私が今回のテーマとしたい「一国者」は、人間の性格・気質のことだ。辞書などによれば、この言葉は「頑固で人の意見を聞かない人」の意味が最初に出てくるものが多い。他の意味、の部分で二番目に「職人気質」などの説明がある。
世の中は自分の思い通りに事が運ぶわけではなく、逆の場合の方が遥かに多い。その中でいかに折り合いを付けるかだが、それをよしとせず、自分が不利益を被ろうとも、自分の考えを変えない人もいる。良くも悪くも、そうした人は一定数いたものだ。「お父さんは一国者だから」などと日常会話で使用されるほどの頻度があった。それが、時代の経過と共に、多くの言葉と共に、今や「死語の世界」にいる。時代の経過と共に新しい言葉が生まれ、古い言葉は消える。その言葉に対する耳障りの良し悪しはあっても、この現象自体を止めることはできない。最近では60代を過ぎた人々でも、言葉の頭に「超」を付けることが多くなったように思うが、文句を言ったところで仕方がない。
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先年、良い意味での「一国者」に出会ったというのも失礼だが、職人気質の一面をまざまざと感じさせられたことがある。ある雑誌の依頼で、江戸期以来十数代にわたって続く老舗の取材をしようとした時の話だ。店に立つ若主人は以前からの知り合いでもあり、快諾してくれたが、一応、当主である父に聞いてみるとのこと。店に立っているのは若主人でもあくまでも当主は父君である。それはその通り、と思って、準備を進めていたら、当主から達筆の封書が届いた。主旨は、「お話は有り難いが、我が家は自分の身の丈にあった商いを細々と続けているだけで、それを世間に広めるつもりはありません。かつて、テレビの取材を受けた時も、何も知らない人が勝手に商品を弄り回してみたり、準備をしておいても、約束のキャンセルの連絡がないこともありました。貴台はそうしたことはないと思っておりますが、ご理解ください」。決して居丈高ではなく、想いを尽くした文面で、納得せざるを得ないことばかりだった。
私は、この手紙を読んで、大きな衝撃を受けた。文章を書いて身過ぎ世過ぎをしている中で、感覚が麻痺し、鈍磨していたのだろう。雑誌で取り上げられることは良いことなのだ、というテレビ局の無礼な行為を批判できない感覚を濃度は薄いながらも持っていたことだ。世間に広めることは良いことだとの感覚を、いつの間にか刷り込まれていたのだ。先方から頼んで「掲載してください」と言われたわけではない。にも関わらず、活字を通して世に広めることを、「正義」とは言わないまでも、当然だと思う節があった自分の傲慢さが恥ずかしかった。
同時に、「身の丈にあった商い」との言葉にも打たれた。少しでも多く売り上げることを第一の目標に置き、そのためなら多少の不本意は我慢するとの考えが多い中で、何という潔さ、毅然たる態度だろうか。同時に、自分の眼が届く範囲を超える注文は受けられない、という強い責任感をも感じる。我々が、身の丈を超える物を求めた上で、いろいろなことが辛くなりもし、苦しくもなる側面は否定できない。
「自分の身の丈」を正確に意識するのは難しく、時に厳しい。しかし、それが分かってしまえば、自らの行動基準や思考の物差しができる。ここまで行ければ、他者との無意味な比較に苦しむことも焦ることもなくなる。しかし、それには自らの技量に一定の自信を持ち、自分より優れている人を素直に尊敬できる気持ちがなくては無理な話だ。また、我慢も抑制も必要だ。それが分かってこその「身の丈」なのだ。
子供の頃、おもちゃのラジコンが流行ったことがあった。父親にねだったところ、有無を言わせぬ口調で、「あれは、お金持ちの子が遊ぶ物で、お前には関係ない」と言われ、言葉を返せなかった。これは、親父が身の丈を知っていたからではなく、私にそんなおもちゃを与えたらその後の様子が即座に目に映ったのだ。我が子を甘やかしてもロクな結果が生まれないことも承知していたのだろう。これは、「身の丈を知って」いたのではなく、ただの頑固オヤジである。
身体も頭も、柔軟性が必要なのは周知の通りだ。しかし、全員がそこを目指す必要はないのかもしれない。最近、政治や文化をはじめ多くの分野で「迎合」が目に余るのは言うまでもないことだ。一方で、自分が信じ、譲れぬ道があるのであれば、それを貫くのは悪いことではない。とは言え、自分が信じる道を見付け、邁進することは簡単ではない。更に難しいのは、己の信念を曲げずに済むだけの技量を身に付けないと、ただの「頑固者」で終わってしまう可能性は多いにある。
「一国者」という言葉が持つ二つの意味。似ているようで非であり、その差は一見小さいようだが、実は限りなく大きい。















