2011年は「日独交流150周年」だ。
明治維新以後、日本はドイツに学び、近代化を推し進めた。
また、両国は第二次大戦の敗戦から奇跡の経済復興を成し遂げた。
しかし、日本がバブル崩壊後の「失われた20年」を経ても浮上しないのを尻目に、
ドイツはリーマンショックから一早く立ち直った。今こそドイツに学ぶべき時だ。
日独史の立役者、シーボルトの生涯に思いをはせ、
近年、東京や"日本のビール発祥の地"長崎など日本各地でも開催され大人気の
"世界のビール祭り"「オクトーバーフェスト」で本場ドイツビールの杯を挙げよう!
◆日本で活躍した最も有名なドイツ人は?
日本とドイツの国交は、幕末の1860年秋に、プロイセンの東方アジア遠征団が日本に到着し、
江戸幕府の鎖国政策が放棄された翌61年に日独修好通商条約が結ばれたことに始まる。
それゆえ、2011年は「日独交流150周年」に当たる。
日独の歴史を振り返って、日本で活躍した最も有名なドイツ人は誰だろうか?
それは、長崎出島のオランダ商館の専属医師だったシーボルト(Siebold)に違いない。
しかし、鎖国時代の当時、江戸幕府は、欧米の国の中では、蘭(オランダ)だけを出島を通じて通商を許していた。
では、なぜそこに、ドイツ人のシーボルトがいたのか。
シーボルトのフルネームは、フィリップ・フランツ・パルタザール・フォン・シーボルト(Philipp Franz
Balthasar von Siebold)という。
日独の国交が始まる38年前の1823年、彼は数奇な運命に導かれて極東の島国にやってきた。
出身地である南ドイツの方言で自らの名をシーボルトと発音していたようだが、標準ドイツ語ではジーボルトだ。
彼はミュンヘンを州都とする現在のバイエルン州のヴュルツブルクに生を享ける。
同市は、世界遺産に登録されている欧州屈指の宮殿と庭園で知られ、有名なロマンティック街道の起点でもある。
http://www.visit-germany.jp/JPN/destination_germany/master_tlstadt-id1248.htm
シーボルト家は貴族階級に属するドイツ医学界の名門一族で、父は大学の内科学・生理学の医学教授だった。
名前の中にある「von」とは貴族にだけ許された呼称だ。
しかし、2歳の時に父が早世し、母方の叔父に育てられた。兄姉も亡くなり彼だけが成人した。
大学では医学、医学、動物学、植物学、地理学などを修め、同郷会の議長に選ばれるなどリーダーシップを
発揮した。
誇り高い男で、当時、男同士の決闘は許されていたものの、生涯33回もの決闘を行ない、顔に傷を負っていた。
そんな男だから、坂本龍馬はじめ薩長土肥の志士たちと幕府がにらみ合う幕末の日本に来ても動じなかったの
だろう。
卒業後、国家試験に合格し、母の住む田舎町で診療所を開業する。
しかし、一躍、東洋に関する研究を志し、オランダ国王の侍医の紹介で同国の軍医となり、27歳の時、
長崎に赴任してきた。
ドイツ人の彼が話すオランダ語は不正確で、「本当にオランダ人か?」と怪しまれたが、
「山岳地帯出身なのでなまりがある」と言って切り抜けたという。
出島で開業後、医師としての名声が高まり、出島の外に出ることを特別に許される。
長崎郊外に「鳴滝塾」を開設。全国から俊秀を集め、西洋医学を伝授した。
また、商家の出のお瀧との間に娘おいね(楠本伊篤)を授かった。
1826年には、江戸に上り、将軍徳川家斉に謁見する。
しかし、28年に一時帰国しようとした際、収集品の中にご禁制の日本地図があったため、国外追放処分となる。
いわゆる、「シーボルト事件」である。
追放が解除となった翌年の1859年、63歳で再来日がかなう。
奇しくも彼が父と死別した2歳で離れ離れとなった娘は、弟子たちの指導の下、日本初の女性産科医になっていた。
30年の年月を経た再会の感慨はいかばかりだっただろう。
その時、シーボルトは、昔、長崎で撮った娘の写真を大切に持っていたという。
その後、幕府の外交顧問となるが、3年後に帰国し、70歳で生涯を閉じた。
◆世界最大の食の祭典「オクトーバーフェスト」
ラガービールが生まれたバイエルン州のミュンヘンには、
シーボルトが14歳だった1810年から毎年秋に開催されている、「オクトーバーフェスト」という"世界最大の
食の祭典"がある。
もとはバイエルン州の収穫を祝う地産地消のビール祭りだ。
年々規模が大きくなり、昨今では、2週間強の期間中に世界中から650万人もの来場者が訪れ、
600万杯以上のビールが飲まれ、30万本以上のソーセージが販売される。
会場には巨大なビールテントや移動式遊園地が建ち並ぶ。入場は無料で、ビールや食べ物を買う際にお金を払う。
音楽に合わせて、みんなで肩を組んで「乾杯の歌」
http://www.youtube.com/watch?v=WR8VmCDdt5o
http://www.youtube.com/watch?v=dHjj9o-xqQg&feature=related
を歌ったり、輪になって踊ったりしながら、楽しく盛り上がれるイベントだ。
10年ほど前から、ドイツのフェストそのままのテントやテーブル、イス、ビールサーバー、グラスを使って、
最高品質のドイツビールを本場さながらに楽しめる、この「オクトーバーフェスト」が、日本でも開催され出した。
日本とドイツの交流150周年と軌を一にして、この「オクトーバーフェスト」が、日本各地で老若男女に
大人気になっている。
今やビールは日本でも国民酒と言えるほど定着しているが、昨今、全国的にヨーロッパ産ビールの需要が
伸びている。
その理由は、日本人の本物志向が高まっているからだと言えよう。
「オクトーバーフェスト」とは、文字通り、10月の祭りの意味だが、アメリカや日本など海外では季節を問わず
行われている。
東京では、今年は、5月に東京の日比谷公園、7月に代々木公園で開催された他、8月に芝公園、9月に豊洲で
催された。
http://www.oktober-fest.jp/
そして、今秋、「日独交流150周年」を記念して、
わが国で最初にビールが醸造された、日本のビール発祥の地であり、シーボルトも暮らした長崎で、
長崎県内各地の地元の地産地消の食とも融合した、「≪食KING王国≫ながさきオクトーバーフェスト」が
開催されている。
http://www.nagasaki-tabinet.com/eat/syokuking/beer/
9月16日(金)~25日(日)は長崎市で、9月30日(金)~10月10日(月・祝)に佐世保市で、
いずれも美しい港に面した広場で行なわれる。
※参考:日本におけるビールの発祥
日本でビールが最初に醸造されたのは、1812年(文化9年)、
長崎の出島において、オランダ商館長のヘンドリック・ドゥーフが自家醸造したという記録が残っている。
その後、1869年(明治2年)、長崎を拠点としていたイギリス人のグラバーやウォーカー兄弟らによって、
横浜で日本最初のビール醸造所、ジャパン・ブルワリー(現・キリンビール)が設立されている。
昨年、バルト海で200年前に沈んだ船から飲める状態の瓶詰めビールが発見されたが、
江戸時代末期の長崎では、ドイツ人のシーボルトや、グラバーらイギリス商人やオランダ商人はもちろん、
日本人も、ヨーロッパからはるばる運ばれてきたビールを飲んでいたに違いない。
三菱の創業者である岩崎弥太郎も、1859年(安政6年)の日記に、「大コップにて西洋の冷酒を牛飲す」と
記している。
ピストルを腰に差し、ブーツを履き、写真が大好きだったハイカラな坂本龍馬がビールを飲まなかったはずがない。
龍馬をはじめ幕末の志士たちも西洋に思いを馳せながら洋風の麦酒に酔いしれたのだろう。
◆日独交流の歴史に思いをはせ、今こそドイツに学ぼう!
明治維新以降、日本は欧米の中でも、特にドイツに学んで近代化を推し進め、
アジア・アフリカ諸国の中で、唯一、欧米列強に伍する国となった。
そして、日独両国は第二次世界大戦をともに戦い破れたが、ともに敗戦から奇跡の経済復興を成し遂げた。
現在、日本は世界第3位、ドイツは第4位の経済大国である。
しかし、日本経済がバブル崩壊後の「失われた20年」を経ても、なお浮上しないのを尻目に、ドイツはリーマン
ショックからも一早く立ち直った。
特に経済の屋台骨である自動車産業や化学産業の収益は大幅に改善している。
ユーロ安が追い風になっているとはいえ、他の欧州諸国はユーロ安を活かせていない中、
ドイツの「ものづくり」の真価が発揮されているのは明らかだ。
ドイツは環境先進国でもあり、日本より進んでいる点も多い。
ドイツ帝国の初代宰相ビスマルクは喝破した。「賢者は歴史から学び、愚者は経験からしか学ばない」。
150年の友情の歴史に思いをはせ、古い友人に謙虚に学びたい。
シーボルトに始まる日独交流の歴史に思いをはせ、今宵もビールの杯を挙げよう。
「アインス・ツヴァイ・ドライ!ズッファ!プロースト!」(いち・に・さん!飲み干せ!乾杯!)