2001年12月、中国は悲願のWTO加盟を実現し、今年はちょうど10周年を迎える。
中国経済はWTO加盟を起爆剤に飛躍的な発展を遂げた。統計によれば、この10年間(2000~10年)、中国のGDPは1兆1985億ドルから5兆9300億ドルへと4.9倍、輸出は2492億ドルから1兆5779億ドルへと6.3倍、輸入は2251億ドルから1兆3948億ドルへと6.2倍、外国直接投資は407億ドルから1057億ドルへと2.6倍、外貨準備高は1655億ドルから2兆8473億ドルへと17.2倍拡大した。世界経済史にもあまり前例がない急速な台頭を遂げた10年だった。10年前、中国国内では加盟の損得をめぐって大論争が起きていたが、10年後、WTO加盟の意義および中国にもたらされた変化を否定する人はいない。
中国の加盟交渉は15年の歳月を費やし、首席代表は4人も変わりそれぞれの役割を果たしたが、最大の功労者は実は当時の首相朱鎔基氏である。彼の決断力とリーダーシップがなければ、中国のWTO加盟は大幅に遅れることになるのは間違いない。
当時の中国首席交渉代表、貿易省(現商務省)副大臣竜永図氏は数年後、ある講演で交渉の難しさを語ったが、そのうち最も注目されるのは朱鎔基前首相の対米直接交渉の秘話である。
竜氏によれば、1999年11月、北京で行われた中国のWTO加盟をめぐる米中二国間交渉は暗礁に乗り、一時的に決裂の寸前となっている。米中交渉は中国のWTO加盟のカギを握っており、最大の山場を迎えている。その時、朱鎔基氏が動き出した。
朱鎔基氏は当時の貿易大臣石広生と副大臣兼首席代表の竜永図に「私が交渉に出る」と決意を表明した。朱首相の決意に驚きを隠せぬ2人は難色を示す。「朱総理、あなたは一国の総理ですよ。もし交渉が上手く行かなければ、再交渉の余地が無くなります。だから、私たちは総理の直接交渉に賛同できません」と、2人は反対の意思をはっきり表明した。
だが、朱鎔基氏は逃げなかった。「君たちは何年も交渉を続けたのにもかかわらず、まだ決着をつけることができない。私が交渉に出てはいけない理由はどこにあるのか?」。石大臣らの反対に対する朱鎔基氏の不満は限界を超え、一気に爆発した。
結局、江沢民国家主席をはじめとする中央執行部は緊急会議を開き、朱首相、銭其?副首相、呉儀国務委員、石大臣、竜首席代表ら5人がアメリカの代表3人と交渉することを決めた。
翌日、米中交渉が再開した。アメリカ側の代表は交渉に出てきた朱首相の姿に驚きを隠さなかった。交渉の冒頭で、朱首相は自ら整理した七つの難問の1つを持つ出し、アメリカ側に譲歩した。すると、石大臣は慌てて「譲歩すべきではない」と書いてあるメモをこっそり朱首相に渡した。しかし、朱首相はそれを無視し、引き続き2つ目の難問を持ち出しアメリカ側に譲歩した。石大臣は再び「この問題は譲歩すべきではない」と書いてあるメモを朱首相に渡したが、朱首相は「メモを書くな」と一蹴した。
それから朱鎔基氏はアメリカ代表に「七つの問題のうち、2つは私が既に譲歩した。これは中国政府の最大限の譲歩だ」と交渉相手の譲歩を迫った。最後に「これ以上譲歩すれば、総理としての私はクビになる」とユーモアも忘れなかった。
朱首相の迫力に圧倒され、その決断力と誠意にも感動させられたアメリカ代表は、暫く内部打合せした結果、残る5つの問題で中国側の案に歩み寄り、交渉が遂に妥結した。朱鎔基首相の決断力とリーダーシップおよび「二歩退き五歩進む」という交渉術は中国のWTO加盟の最大の難関突破に導いた。
この朱鎔基氏の交渉秘話は、日本にとって実に示唆に富む。いま日本はTTP交渉に参加するかどうかをめぐり、大論争が起きている。そのなか、野田首相はどう判断するか?朱鎔基前首相のような決断力とリーダーシップを発揮できるかどうかが注目される。