関ヶ原の合戦に間に合わなかった徳川秀忠は、その一点で父・家康の不興を買い、世継ぎの失格者と見なされた。
後継選定会議では、武才を基準に兄の秀康か弟の忠吉のいずれかを推す声が重臣の間に高まった。そのとき、大久保忠隣(おおくぼ・ただちか)がただ一人、異を唱えた。
「軍陣が続く時代であれば、人の上に立つ者の評価は武勇が第一でありましょうが、すでに天下が納まったとなれば、文治の時代となります。武勇に関してはお三方ともに甲乙はつけがたいと思われます。秀忠殿こそ、謙譲の徳を備え、父上の意に添って統治なさることができるでしょう」
「創業」と「守成」の時代で求められるリーダー像は異なると主張し、秀忠を擁護した。
忠隣はさらに、「秀忠殿をこれまで嫡男として扱ってきたではありませぬか」と強調している。後継者としてむやみに嫡流を廃したのでは混乱を招くという判断だ。
家康は、いったん後継者の評議を預かり、数日後、忠隣の主張を汲んで秀忠を後継者として告知する。
関ヶ原から三年後の慶長八年(1603)、家康は征夷大将軍に任じられる。そして二年後には、27歳の秀忠に将軍位を譲り、駿府(静岡)に隠居する。
しかし、隠居とは名ばかりで大御所として政治の実権は手放さなかった。駿府に重臣を集め、そこで決定された政策を江戸の将軍・秀忠に指図し続けた。
「まだまだ、豊臣の威光は無視できぬ。政権固めはわしがやる」
豊臣遺臣の間では、いずれ秀吉の遺児である秀頼が成人すれば政権を取らせるという暗黙の了解があった。
であればこそ家康は、徳川世襲で政権を担う意志を天下に示す必要を感じて、形だけの秀忠への政権委譲を強行した。
三代目の指名も家康が江戸へ乗り込んで裁定する。秀忠の妻、お江は長男が夭逝した後、俊敏な三男の国松を偏愛した。次男の竹千代(のちの家光)は奇行が多く、秀忠も三代目は国松にしたいと気持ちが傾いていたが、家康はひっくり返してしまう。
トップの地位にありながら、何ひとつ任せてもらえない二代目。 これほどの屈辱はない。ふてくされて遊興に走るか、実力で父の影響力を除く挙にでるのが世間の常だ。
しかし、秀忠は違った。ひたすら家康を立てて耐えながら、父が発案する政策を着実に補佐し続ける。
二代目の不甲斐なさを嘲る声が家臣のみならず庶民の間にも広がっていく。
そして、家康の死を迎える。耐え忍んできた秀忠は豹変するのである。 (この項、次週に続く)