男の名誉とは
中国正史の初めである『史記』を司馬遷が著さなければ、われわれは、歴史に登場する烈士たちの人生に学ぶ機会が大きく損なわれただろう。彼に襲いかかった「李陵(りりょう)事件」は、人生における名誉と恥辱、生と死とは何かを教えて余りある。
李陵は、司馬遷と同時代、前漢の武帝に仕えた将軍である。武帝は、20年ぶりの匈奴攻めに際して、愛人の兄である将軍・李広利に3万の兵を任せた。李陵は別働隊5千を率いて、敵の本拠に攻め入った。李広利は凡将で応援もできず、李陵は10日間、孤立無援で奮闘したが多勢に無勢で敗れ、敵に降った。
怒った武帝は李広利の責任は問わず、生きながらえて敵の手に落ちた李陵の罪を群臣たちに問うた。側近たちは武帝を恐れ、「李陵有罪」を主張する。司馬遷が口を開いた。
「彼は国士です。国難に殉じるのが彼の願い。命の危険もなく妻子をのうのうと抱えておるものどもがこの時とばかりに彼の悪口を言い立てるのは合点がいきません。彼が死ななかったのは、機があればもう一度国に報いるためでしょう」
言わずにはおれなかった。李陵の名誉のためにも。皇帝に仕える自負でもあった。しかし、怒り狂う武帝は司馬遷を(男性のシンボルを切り落とす)屈辱的な宮刑に処す。李陵の一族は皆殺しにされた。
やがて、李陵に赦免の使者が訪れたが、彼は毅然として断る。「国に戻って再び恥辱にまみれたくはない」。一族を殺された将軍の自尊心がそう言わせた。異国で20年過ごし、その地で果てた。
司馬遷の吐露
司馬遷は、太古からの中国通史を書く作業に没頭した。同じ歴史記録官として志半ばで逝った父の遺言もあったとはいえ、その心中は察して余りある。宮刑を受けて生きる気力をよく保てたものだ。生きながらえるより「死による名誉」もあっただろう。
のちに、彼は知人にあてた手紙で、死をも覚悟した心のうちを吐露している。
「(歴史官の仕事は)君主の玩具であり、道化役として養われる身。世間から軽く見られている。そんな私が死んだとしても、世間にとっては、〈九牛の一毛をうしなうが如し〉(たくさんの牛の群れの中の毛が一本が抜けたようなもの)。節操を通して死んだとは世間は見てくれないだろう。死ねば恥辱は消えるというのは、強がりというものだ」
〈ならば生きる〉というのが司馬遷の選択であった。李陵が敵の手に落ちても生きのびたように。
死より大切なもの
散逸した天下の歴史エピソードを拾い集め、事実を調べ、なぜそんな結果になったのか、その因果を考察する。まさに歴史家として生きることを恥辱の中から選び取る。
手紙は続く。
「始めたばかりで未完のうちに事件に巻き込まれました。この書ができあがらないのが心残りなばかりに、甘んじて最も恥ずかしい刑を受けた次第です。この書ができて多くの人に伝えることができれば、私が受けた辱めの借りを返すことになる。悔いはありません」
彼の死後、孫の代になって大著『史記』はようやく世に広まることになる。そして二千年。今も人々に読み継がれている。
歴史家のみならず、人の成し遂げる本当の仕事とはそうしたものなのだろう。
※参考文献
『中国古典文学大系13 漢書・後漢書・三国志列伝選』本田済訳 平凡社