義経に疑心を抱きはじめた頼朝は、義経に平宗盛(むねもり)父子ら平家の捕虜を連れて鎌倉に下るように命じた。壇ノ浦の翌月、5月のことである。
この間、義経は誤解をとくため、兄への忠誠を神仏に誓う起請文を何通も鎌倉へ送ったが、返事はなかった。義経にとってそんな状況での鎌倉下向の命令は直接兄に会い釈明する機会であると見えたろう。
ところが頼朝は、宗盛(むねもり)ら捕虜たちと面談したものの、義経には江ノ島近くの腰越(こしごえ)に留め置いて、鎌倉に入ることを許さなかった。
当初、頼朝も鎌倉で直接会って真意を質そうとしたに違いない。しかし、一足先に梶原景時(かげとき)の諫状(かんじょう)が届いている。
頼朝側近たちも面談に反対した。それほど義経の活躍で勲功の機会を奪われた東国武士たちの反感は強かった。
12歳違いの兄弟とはいえ、頼朝と義経は育ちがまったく異なっている。父の義朝が平治の乱で平清盛に敗れたあと、ともに幼いがゆえに死罪を免れたが、兄は伊豆へ放逐されて、土地に執着する荒くれの東国武士の中で育つ。
弟は京の鞍馬(くらま)の寺に預けられ、のちに奥州平泉の藤原家の手で育つ。雅(みやび)の文化、気風の中で育った義経には、忠義と恩賞・給与が第一という東国の風土を理解できなかった。時代を動かし始めた武家の権力基盤のあり方についての想像力に欠けた。
鎌倉を目の前に一か月を無為に過ごす義経に焦りが芽生える。
「左衛門少尉義経、恐れながら申し上げます」から始まる一通の書状を頼朝に送る。
「私は(頼朝の)代官として、勅命を受けて朝敵を滅ぼし、先祖代々の弓矢の芸を世に示し、父の恥辱を雪ぎました。ひときわ高く賞賛されるべき所を、恐るべき讒言(ざんげん)にあい、莫大な勲功を黙殺され、功績があっても罪はないのに、御勘気を被り、空しく血の涙にくれております。ここに至って讒言した者の実否を正されず、鎌倉へ入れて頂けない間、本心を述べる事も出来ず、徒(いたずら)に数日を送っています。私の宿運が尽きたのでしょうか。はたまた前世の悪業のためでしょうか。悲しいことです」
後世、「腰越状」と呼ばれる、情に訴える手紙も頼朝の心を動かすことはなかった。
「宗盛(むねもり)父子を処刑のため、連れて再度京へ上れ」“小僧の使い”の扱いに義経は切れた。
「おのれ、鎌倉殿(頼朝)に不満の者はおれについてこい」
義経は京へ戻る。兄弟の激突は目に見えていた。(この項、次回へ続く)