平氏一族の滅亡に続いて起きた源頼朝と弟の義経の不仲をほくそ笑んで眺めていた男が京にいた。後白河上皇である。
平氏一門とともに数えの八つで壇ノ浦の海底に沈んだ安徳天皇は、上皇の孫である。
しかし平清盛が強引に即位させ、都落ちに同行させた安徳の皇位を上皇は認めてこなかった。孫の死も、宿願の怨敵消滅の前には悲しみに値しなかった。
武家の躍進を目の当たりにして、天皇を最高位に置く朝廷権力の維持こそが後白河が終生抱く唯一の目的、人生目標である。
時間を遡(さかのぼ)って後白河の思惑を書いておく。独自の武力を持たない後白河にとって、武家を押さえ込むには、武家の力をもってする、これこそが彼の一貫した政治手法であった。
頼朝と相前後して平氏討滅に決起した木曾義仲が都入りするや、頼朝・義経、そして河内源氏の棟梁である源行家(ゆきいえ)を対抗させて敗死に追い込む。
平氏との抗争には勝てる。残る頼朝をどう牽制するか、上皇は腐心する。
そこへ現れたのが義経であった。
「義経は頼朝と違う」
前回書いた二人の育ち上がりの違い。上皇のみならず朝廷周辺の貴族たちも、頼朝とその取り巻きには、東国の無頼の匂いを嗅ぎつけて嫌悪感を抱いても、義経には親しいものを感じたに違いない。
1184年(寿永3年)、一の谷の合戦で大活躍した義経は、およそ1年、頼朝に命じられ京で政治工作に専念する。
当然、朝廷との接触も増える。「義経は使える」。そう考えた後白河は、義経を京の治安・公安担当の最高責任者である検非違使(けびいし)・左衛門少尉(さえもんのしょうじょう)に取り立てた。さらに従五位の位冠を与え、院への昇殿を認めた。
鎌倉にこもって東国支配に尽力し、朝廷を凌駕(りょうが)する権力を目指す頼朝は、一度も上洛することなく、朝廷との距離をとっていた。
「義経は取り込まれているのではないか」
鎌倉からはそう見えた。
後白河の思惑は、「頼朝が東国を固めても、西の義経と、縁の深い平泉・藤原氏で挟撃すれば何も怖れることはないわ」
義経もやがて、「後白河と結んでおけば、全国制覇も夢ではない」と大望を思い描くようになった。清盛型の天下差配の幻想である。
後白河の思う壷であった。
さて、話は壇ノ浦後に戻る。兄の弟への恨みは執拗であった。鎌倉入りを許さず京に追い返した義経に、兄頼朝は刺客を放った。(この項、次回へ続く)