諸葛孔明の負の側面
中国三国時代、蜀の宰相として活躍した諸葛孔明の忠臣ぶりは、『三国志』ファンの間で絶大な人気を誇る。その諸葛孔明の負の側面をあえて書いてみる。
彼は能吏である。経理から政治交渉まで何でもこなす。宰相に上り詰め、軍を率いて北征にも出る。秀才によくある、人に任せられないタイプの人だ。人に任せても「オレがやった方が早い」と苛立つ。何もかも自分でやらないと収まらない。
黄初四年(223年)、蜀の皇帝、劉備が世を去り、長男の劉禅が17歳で後を継ぐと、宰相となって国政を仕切ることとなる。
役所の帳簿まで自分で検査し始めた。見かねた主簿(総務部長格)が忠告する。
「組織には上下それぞれに役割分担があります。国政の最高責任者の貴殿が一日中、汗を流して帳簿調べまでなさったのでは、お疲れになるだけです」。それでは有事の判断に差し支えるばかりか、部下は萎縮して働く気をなくしかねない。的確な忠言だったが、孔明の癖はなおらなかった。
出師(すいし)の表
実は、君主の劉備の死の床に呼ばれた孔明は、こう告げられていた。
「君の才能は、有り余るほどだ。きっと国を安んじて漢を復興するという私の理想の大事業を実現してくれるだろう。もし息子(劉禅)が助けるに値する者なら助けてくれ。才能がないと思えば、お前が皇位をとれ」
劉禅は若いだけでなく、凡庸であった。「オレがやった方がうまくいく」と孔明は考えただろうが、それでは漢の皇室の血筋を継ぐ劉家の権威、正統性は得られない。創業家の劉禅をトップの飾り物に立てて、自分が国政を取り仕切る、というのが孔明の判断だった。
そして、孔明は内政を固め、宿敵の魏を討ちに北伐に出る。その時、彼は有名な「出師の表」を劉禅に捧げる。
「先帝は漢室の再興の志を遂げられないまま、亡くなられました」から始まって、北伐の決意を述べ、「いま、この表をしたためるに際しても思わず涙が流れ、文の筋道も立たぬようになった次第」に終わる、表明文は、三国志ファンなら、紅涙を絞る場面だ。
人材不足で勝負をかける愚
そして自ら大軍を率いて遠征に向かう。劉禅にしてみれば、「親父の話まで持ち出して、忠義のために死ぬ覚悟だと? いい気なもんだ。勝手にやってくれ」という心情になるだろう。
蜀の国はまだ弱小だ。山間の地に籠もって人材を育て、国力をつける段階での一気の勝負には早すぎた。武将の関羽、張飛はもはやこの世にいない。軍才もあったとはいえ、後方で指揮をとるべき知略にあふれる孔明が軍を率いざるをえない悲劇でもある。
孔明は四度目の北伐で病死し、蜀は滅亡に向かう。
蜀の運命を託された孔明がなすべきことは、まず、手足となって働く人材の育成だったはずだ。「オレがやらなくても、国は動く」体制の構築だったのではないか。
(書き手)宇惠一郎 ueichi@nifty.com
※参考文献
『正史 三国志5蜀書』陳寿著、裴松之注、井波律子訳 ちくま学芸文庫
『読切り三国志』井波律子著 ちくま文庫
『中国宰相・功臣18選』狩野直禎著 PHP文庫