前々回では「甘い言葉をかけてくる者は危険」、前回は「あまりに厳格な者ばかりをそばに置くのも危ない」といったことを述べました。
「ただでさえ高レベル人材は少ないのに、ますます人材登用が難しくなる」と困惑されているかもしれません。
リーダーの側としては、相手がどうこうという前に、
適材を適所で使う
という心構えが必要です。
誰にでも長所、短所があるわけですから、長所が生きるところに配置すれば、自分を支えてくれる人材として能力を発揮してくれるでしょう。
前漢(かん)の孝文(こうぶん)皇帝が亡くなる1年前(紀元前158年)のこと。匈奴(きょうど、モンゴル高原を中心に活躍した遊牧騎馬民族)が北辺に侵入してきました。
文帝は詔(みことのり)を出して、将軍周亜夫(しゅうあふ)には細柳(さいりゅう)の地を、将軍劉礼(りゅうれい)に灞上(はじょう)の地を、将軍徐厲(じょれい)に棘門(きょくもん)の地をそれぞれ守らせ、匈奴に備えさせます。
あるとき、文帝はみずから軍を慰問しようと思い立ち、まず灞上、次に棘門を訪問しました。どちらも馬を走らせてすぐに陣中に入り、将軍以下、みな騎馬で送迎しました。
その後、細柳に行きましたが、軍門を入ることができません。先駆けの兵士が叫びました。
「まもなく天子様が軍門にお着きになるぞ」
すると、軍門を守る将校がいうには、
「軍中では将軍の命令を聞いて、天子様の詔(みことのり)を聞かないのがきまりです」
そこで、文帝は使者に、天子の使いのしるしである旗を持たせて、将軍の周亜夫に詔を伝えさせたところ、すぐに周亜夫は伝令を出し、軍門を開かせました。
ところが、門を守る兵士が文帝の車の護衛兵に要請してきたのです。
「軍中では車馬を走らせてはなりません。徐行を願います」
そこで、文帝一行は手綱を引きしめ、徐行しながら軍営に向かいました。そして慰問の挨拶をすませて立ち去ったのです。
群臣たちは皆、軍律のあまりの厳しさに驚き、あきれましたが、文帝は、
「周亜夫こそが真の将軍である。先の灞上や棘門の軍は子供の遊びのようなものだ」
と言ったとのこと。
文帝は臨終の床で、太子(のちの孝景(こうけい)皇帝)にこう戒めました。
「もしも国家の一大事というときがきたら、周亜夫を将軍にせよ」
呉(ご)楚(そ)七国の乱が起こったとき、景帝は周亜夫を太尉(たいい)(軍事長官)に任じ、36人の将軍の総大将として、呉と楚の両国を討伐に往(い)かせます
周亜夫は呉、楚を大いに打ち破り、謀反した諸国は皆平定しました。
周亜夫は後に宰相となり、條(じょう)侯に封(ほう)ぜられます。しかし、諫言を奉って景帝の意に逆らい、罷免され、不愉快きわまりない感じでした。景帝は、
「このように不満を抱いている者は幼少の太子の臣下として置いておくべきではない」
と言ったとのこと。
ついにある者の讒言(ざんげん)によって牢に入れられ、周亜夫は怒りで血を吐いて死んだのです。
彼は将軍としては優秀でしたが、朝廷で政治を行うには柔軟さが不足していたのかもしれません。
周亜夫を宰相にしたがために、先帝以来の功臣を殺すことになってしまったのは景帝の人事配置の失敗といえるでしょう。
冒頭に述べたとおり、適材を適所で使わねば、せっかくの逸材も宝の持ち腐れとなってしまいますし、リーダー自身の発展にもマイナスとなります。
誰をどんな仕事につかせれば最高の仕事をしてくれるか、見抜いて起用する
ことが、功臣を生むことにつながるのです。