可愛い部下には目は曇る
中国の古典、法家(法治主義学派)の理想の徹底を説いた『韓非子(かんぴし)』の説難編にこういうエピソードがある。
戦国時代の中国、衛国の霊公に弥子瑕(びしか)という若者がいた。なかななの美少年で霊公の寵愛を受けていた。
ある夜、弥子瑕は母の急病を聞いて、君命だと偽り霊公の車で見舞い出かけた。衛の国法では許可なく王の車に乗れば、足を斬り落とす刑に処せられる。
それを聞き霊公は叱るどころか、感心して褒めた。「なんと孝行者か。母を思うあまり、足を斬られることも忘れるとは」と。
またある日、弥子瑕は霊公のお供で果樹園を訪れたとき、口にした桃があまりにおいしいので、食べ残しを霊公に勧めた。「無礼者め」と一悶着起きるかと思いきや、霊公は、「なんと忠義者か。こんなに美味しいものをひとりで食べずに私にすすめるとは」とまた、褒めた。部下の不法行為も無礼も、可愛さゆえに赦された。
突然の心変わり
弥子瑕の美貌もやがて衰え、霊公の寵愛も去った。すると霊公は、かつて褒めたふたつの行為を思い出しては、ねちねちと咎めるようになる。
「こいつは、嘘をついてわしの車を勝手に使いおった。また、残り物の桃をわしに食わせたこともある。とんでもないやつだ」
韓非子の書く結論は、気まぐれな君主の心理状態を踏まえ、「意見を述べたり、いさめたりするには、相手に自分がどう思われているかを知ったうえで行うべきである」となっている。後世の解説書の多くも、そうした下世話な処世術の教訓とだけ位置づけている。
しかし、筆者はそう思わない。法治の徹底を説いた韓非子である。彼が言いたかったのは、「組織において、人の評価の基準は一律、一定でなければならない」にある。そしてそうならないのが世の中でもある。
ボスによる部下の人物評価にとどまらない。組織・企業にとってのトップの評価も同様であろう。組織・企業を危機から立て直した“中興の祖”を「神だ」「経営の神様だ」ともてはやし、一転して「人間のくず」と貶める。一定のものさしで人物を図らず、別の政治力学で評価を覆す愚。日産のトップ交代劇のみならず、官界の不祥事、あるいはアメフト、ボクシング、体操、相撲界…この一年、そんな抗争劇を見せ続けられてきた。
逆鱗に触れる
説難篇のこの話は、こう結ばれる。ご参考までに紹介しておこう。
「龍という動物は、馴らせば、人が乗れるほどおとなしい。ところが、喉の下あたりに直径一尺もある鱗(うろこ)が逆向きにはえていて、これにさわろうものなら、たちまち噛み殺される」
「逆鱗(げきりん)に触れる」という故事の出典がこれである。君主のみならず、世間、マスコミ、いたるところに逆鱗はある。
『韓非子』の著者の韓非は、同門の李斯(りし)のねたみを買って自殺に追い込まれる。なんとも悲しい世の中である。
(書き手)宇惠一郎 ueichi@nifty.com
※参考文献
『中国の思想1 韓非子』西野広祥、市川宏訳 徳間書店