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- 逆転の発想(17) ミスを恐れるな、ミスに繋がる油断を許すな(プロ野球監督・西本幸雄)
“お荷物球団”を蘇らせた男
戦後のプロ野球史にあまたの名監督がいる中で、西本幸雄は、大毎、阪急、近鉄で8度のパ・リーグ優勝を飾りながら、一度も日本一の栄光をつかむことがなく、「悲運の闘将」と呼ばれた。
直前の監督が鍛え上げたチームを引き継いで日本一に輝いた監督もいるし、資金力にものを言わせて投手、野手を強化し常勝球団をつくり上げる幸運な監督人生もあるだろう。 しかし西本が高く評価されるのは、監督を引き受けた時点で、スター選手はおらず、万年Bクラスに甘んじていた阪急、近鉄の2球団を短い期間で日本シリーズの舞台に導いた手腕である。
西本が阪急の監督に就任した1963年、チームは勝率4割にも届かず、最下位に甘んじた。「弱いチームには弱いチームとしてのしきたり、習性が染み付いている。それを払拭することから始めた」という西本は、基本である体力づくりからはじめた。そして選手から批判が出るほどの猛練習を課した。
「理にかなった練習をしたら体が変わる。体力がつけば戦う気持ちが生まれる。最後に技量をつけさせる」
信頼関係が人を育てる
就任2年目にはパ・リーグ常勝の南海に食らいついて2位となる。そうなると選手にも意欲が出てくる。そこから西本は、チーム主力づくりに取りかかる。ドラフトで獲得したスラッガーの長池徳士、後に盗塁王となる福本豊、アンダースローの山田久志に目をつけると、結果が出なくても辛抱強く使い続ける。実戦の中で考えさせる。
負けて当たり前の負け犬根性の集団が、戦う集団に変わっていく。時には罵声を浴びせ、時には鉄拳も。はじめは選手の間に不満も広がったが、勝利という結果がともない始めると、選手たちは監督を信頼するようになる。ナイトゲームの後の打撃練習も選手たちが率先してこなすようになる。そして結果が出る。結果が出るから選手は監督の采配を信頼する。
監督就任から5年目には初めてリーグを制覇すると三連覇。さらに、一年置いて2連覇の常勝阪急が出来上がった。
阪急での実績をひっさげて監督に就任した近鉄はさらにひどい球団だった。パ・リーグ誕生の1950年以来、24年間で14回も最下位を経験している。
「今のチームに欠けているのは打撃のパンチ力、選手層の厚さ、勝利への執念だ。2年以内に優勝チームに育てたい」。就任会見での西本の力強い決意を信じるものはいなかった。
その近鉄も、2年めには、後期優勝(当時はシーズン二期制)を果たし、79、80年にはリーグ連覇を達成する。なにがチームを変えたのか。もちろん練習は高校野球並みの特訓を課した。しかし、それだけではチームは変わらない。パ・リーグを代表する捕手に変身する梨田昌隆が、西本就任初日をこう回想している。
「怖い人だろうと、緊張して名乗って挨拶すると、西本さんは言ったんです。『名前なんかわかっとる。お前らがおるから近鉄に来たんや』と。嘘でもうれしかった」
存在を認め、鍛える。結果を出すのはリーダーの仕事なのだ。信頼関係があってこそ、選手は過酷な指示にも従いついてくる。
江夏の21球のウラで
西本は、口を酸っぱくして選手たちに教えた。「ミスを恐れるな。ミスに繋がる油断を恐れよ」。コーチ陣にはこう言った。「ミスを責めるな。ミスにつながる油断を許すな」。試合中も選手たちに出す指示の実行を徹底させた。
悲運の闘将に継いて語り継がれるエピソードに「江夏の21球」がある。79年、初優勝した近鉄が広島と戦った日本シリーズの最終第七戦。これに勝てば、西本初の日本一という正念場のゲームの9回ウラ近鉄の攻撃。1点リードされてのノーアウト満塁。一打出れば逆転の場面で、広島リリーフの江夏豊が、ワンアウトを取った後、とっさにスクイズをはずしてピンチをしのいだ名勝負だ。
この場面を前に、西本は、打者の石渡茂に、「3球全部振って来い」と指示していた。この指示を石渡は守らず、緊張からか、初球を見送った。「これは気合に飲まれている」と見た西本はスクイズのサインを出した。「前に転がせば、江夏のフィールディングは悪いから得点の可能性がある」
広島バッテリーに見破られ、江夏が外角高めにはずしたボールに石渡のバットは届かなかった。スクイズは失敗し、結局は三振。試合は終わった。
西本は指示を無視した石渡を責めなかった。そしてこう振り返る。
「負けたら、すべて監督の責任。スクイズのサインを出した自分が悪い。何があっても自分が責任を取る」
この監督あって、かつての弱小近鉄は、翌年もパ・リーグ優勝を果たした。
(書き手)宇惠一郎 ueichi@nifty.com
※参考文献
『パ・リーグを生きた男 悲運の闘将 西本幸雄』元永知宏構成 ぴあスポーツ書籍
『プロ野球、心をつかむ!監督術』永谷脩著 朝日新書