鎌倉の頼朝が京にいる義経暗殺のために差し向けた刺客は、土佐坊昌俊(とさのぼう しょうしゅん)という。武士だと怪しまれるので僧職に80騎を率いさせた。
義経が兄頼朝に恨みを残したまま腰越(こしごえ)から京へ戻って、5か月後のことである。
動きを察知した義経は、頼みとする上皇(出家してからは法皇)・後白河に対して「頼朝追討」の院宣(いんぜん)を要請するが、後白河の対応は煮え切らなかった。「鎌倉(頼朝)と今、事を構えることが得策か」。
京に到着した土佐坊の兵が義経邸を包囲し、義経が辛くも撃退するや、後白河は「頼朝は朝敵」として追討の院宣を与える。
義経は決起する。鎌倉にも反頼朝の動きがある。奥州平泉の藤原一族も立ち上がると期待した。しかし、奥州勢力は動かず、義経の挙兵に応じるものは数えるほどしかいなかった。
義経の最大の誤算は、権力闘争の背後にある時代のうねりを読めなかったことにある。
平安末期ともなれば、土地公有を原則にした朝廷を中心とする律令制古代国家の経済体制は、根本から崩壊をはじめていた。
貴族、有力寺社は地方に広大な荘園を私有し、その荘園を武力で管理し収穫の京への運上を担う武士という階級が力を付けてきた。
武士たちは、預かった土地に加え、自らの汗で獲得した開墾地に対する実質的な管理権を主張し始めていた。新しい土地運営の形を武力で朝廷権力に突きつけはじめていたのである。
「誰が我々の利益を代表するか、そして朝廷に対抗する権力を握れるか」というのが、武士たちの判断基準である。
対朝廷で先鋒急な頼朝に反感を抱く一部の武士たちも、義経の今後を見定めようとしていた。勝者と確認できるまで動かない。
信長を本能寺に討ったあとの明智光秀を取り巻く動きと共通のものがある。時代の流れを読めたものだけが勝ち残れる。歴史に現れる悲劇は決して偶然に支配されているわけではない。
見定めようとしていたのは、後白河も同じである。決起不調を見て義経に、「九州へ下って再起を期せ」と促し、京を立ち退かせた。
後白河が添えた九州・豊後の武士、弁慶、伊勢三郎義盛、静御前ら側近わずか200騎を引き連れた義経は、摂津の大物浦(だいもつうら)から船出する。
一行は港を出て間もなく、おりからの暴風雨で遭難してしまう。運命という名の必然は、時にこうした形で姿を現すことになる。(この項、次回へ続く)