『三国志』は経営者に人気の書である。天下取りに必須の教科書とも言われ、とりわけ魏・呉・蜀三国の中でも小国だった蜀の名軍師として諸葛亮・孔明は判官びいきもあって世の評価が高い。
しかし、その孔明も重要な局面で決定的な失策を犯した。それによって劉備・玄徳から託された天下取りの夢が消えたといっても過言ではない。
中国西部の山国、蜀の丞相(じょうしょう=首相)だった孔明は、建興5年(227年)春、勢威を誇る魏に向けて北伐の軍を起こす。
蜀の名君、劉備が死んで4年。後事を託された孔明は、二代皇帝の劉禅に有名な「出師の表」(すいしのひょう)をたてまつり、決死の覚悟で大軍を率いて成都をあとにした。
漢中の地まで進出した孔明はここで最初の過ちを犯す。
進軍路をめぐり、将軍の一人と対立してしまうのだ。将軍、魏延はこう献策した。
「それがしに兵5万と輜重兵5000をお貸しくだされ。秦嶺山脈を越えて一気に長安を衝いてみせます。いま長安を守るのは魏王の女婿の青二才。蜀の軍を見て逃げ出すでしょう」
長安を落とせば魏の本拠である洛陽は目と鼻の先。勝利も視野に入る。
しかも長安には豊富な軍糧がある。兵站に不安のある蜀軍にとっては当然の作戦だ。しかし、孔明は魏延の提案を斥けた。
策士の孔明は慎重な男である。彼が選んだ進路は長安、洛陽とは逆の北西にある祁山(きざん)へと向かう迂回路であった。
「一気の長安攻めは危険な賭けだ。平坦路を行き敵の手薄な地域で勝利を重ね圧迫するのがよい」と判断した。
どちらが正解であったかは、意見の別れるところである。進路選択が失策だったというのではない。「勇猛にかけては人後に落ちない」宿将の献策をにべもなく斥け、恨みを残したことにある。
魏延は、この一事から孔明を後々まで「怯(きょう)」(臆病者)と罵り続けた。劉備の健在時には専ら内政を任されていた孔明は、軍を率いる経験は浅い。
「孔明に軍が分かるのか」。彼は、蜀軍一の勇将の信を失ってしまった。
そして漢中を出発する。だれを先発軍の指揮官に起用するかが関心の的になった。だれもがベテランの魏延がその任にあたると見ていた。ところが孔明は、実戦経験の乏しい39歳の参謀、馬謖(ばしょく)を抜擢する。
魏延は面子(メンツ)を完全に潰された。(この項、次回に続く)