姿を消した義経が奥州平泉に潜伏していることを頼朝が確認したのは、逃亡二年後のことであった。
幼少時の義経を親代わりとして育てた藤原秀衡(ひでひら)の元に匿われていた。三代にわたって東北に“独立王国”を維持する秀衡には頼朝も容易には手を出せなかった。
その秀衡が間もなく死ぬと情勢は一変する。
「義経を差し出せば、奥州支配を認めよう」。頼朝からの甘言に代を継いだ泰衡(やすひら)は、義経の館を急襲し、義経は自害して果てた。
31歳。壇ノ浦の勝利から4年後だった。
頼朝は約束を反故にして自ら大軍を率い奥州に遠征、泰衡を敗死させた。そして藤原領を御家人たちで分割してしまう。
敵を作って征伐し、取り上げた領地を部下の御家人たちに分け与え安堵(あんど)する。頼朝の政権構想の根本に矛盾があった。
最初に平氏、そして義経、奥州藤原氏と外に敵を求めているうちはよかった。その過程で全国に索敵のための惣追捕使(そうついぶし、後に守護)、地頭という警察権力の網を巡らせることで、実質的な土地の支配権を朝廷・貴族、寺社から奪う手段として利用した。
権力自体が、平氏を追放し武家政権を開くまでの“有事”の形態だったのだ。
平時となると、敵もなくなり、御家人たちに分け与える土地もない。あとは、内にあえて敵を作り出し続けるしかない運命にあった。
ライバル社を蹴散らし、市場の独占を果たした企業が、その後の社内抗争で疲弊、没落してゆく事例は、身の回りにもあるだろう。
平氏なきあと、東国武士たちが棟梁の頼朝を突き上げ、最初の内なる敵に仕立て上げたのが義経であった。
兄頼朝を支え続けた範頼(のりより)も義経の死の4年後、身内の讒言(ざんげん)によって謀反の罪を着せられ、伊豆へ幽閉されたあと殺害されている。
讒言で義経を陥れた梶原景時(かじわら かげとき)も、頼朝の死後に鎌倉を追放され、幕府軍との一戦に敗れた一族は滅亡する。
頼朝が後を託した二代目頼家(よりいえ)は北条氏ら有力御家人の傀儡(かいらい)に過ぎず、頼朝の乳母筋にあたる比企氏も北条氏と衝突して消える。
三代将軍の実朝(さねとも)は陰謀によって暗殺され、頼朝が抱いた源氏永久政権の夢は執権北条氏の策謀で消えた。
〈奢(おご)れるものは久しからず〉。平家物語が発する警告は、いかなる組織にも反省を強いる。
内に敵を求める愚を犯していないか。不断の警戒を求めているのだ。