紀元前3世紀、中国戦国時代の思想家、韓非が国家統治の極意を説いた著作『韓非子』に、君主が実践すべき七つの心構え(七術)と、やってはならない六つの戒め(六微)が書かれている。
実践すべきこととの冒頭には、「臣下の言葉を事実と照合すること」がある。そして、やってはならないことの第一として、「権勢を臣下に貸し与えること」が挙げられている。
時は下って500年後の三国時代。三国の一角である呉の孫権(そんけん)は、晩年、この二つの教えを守らず失態を招くことになる。
19 歳にして兄の孫策を継いで三代目の王となった孫権は、若いうちこそ父の代からの番頭格である年上の宿老たちに大いに気を遣った。
そして50代も半ばとなる。長期政権で権力は一身に集中した。一見安定して見える中に綻びが生まれる。どこにでもあることだ。
“一強体制”のトップには意外に正確な情報が上がらない。だれもがイエスマンとなっておもねり、忖度(そんたく)して本音を口にしなくなるからだ。
孫権の過ちは、入ってこない人事情報を得るために、呂壹(りょいつ)という下級役人に特務調査を全面的に委ねたことであった。
呂壹は、個人の好悪で諸将、官僚を評価し、情報を孫権の耳に入れる。それに基づいて孫権は悪評価の将軍、大臣たちを捕らえ、殺し、左遷する果断を振るった。
「おのれ、あの茶坊主め」。地方駐在の将軍が呂壹を宴会に呼び出して殺害を試みる。呂壹は逃げるが、これを契機に側近たちから孫権をいさめる諫言が上がるようになる。事ここに至って孫権は気づき呂壹を切った。
そして、「呂壹を信用したのは私の過ち。諸君は、今後の政治の進め方について意見を聞かせてほしい」としたためて臣下に伝令を送った。
しかし、事件の痛手は大きかった。
諸葛瑾(しょかっきん)ら側近の武将たちは、「何も意見はない」と伝令を追い返す。孫権の信頼は完全に失われた。
孫権は体制崩壊の危機を感じて愕然とした。そして涙ながらの詔(みことのり)を発した。
「自分だけが正しいと思いこみ、他の人たちの意見を拒み、知らず知らず君たちに敬遠されることになった。頼む。直言を呈してくれ。私の足りぬところを指摘してくれ。それが私の望みだ」
どうしても、同時進行しているある政治現実が重なってしまう。内閣改造を終えて、やつれた顔で一連の疑惑を招いた責任について反省の弁を述べる首相の姿だ。
冒頭に引いた『韓非子』の教訓。二千数百年の時を越えて今も色あせていない。