【意味】
天命を知らなければ、立派な人生を歩めない。
【解説】
両親から生まれた自分も、人間種族の数百万年の単位でとらえれば、庭の松の木と同じです。共に自然の摂理により産まれた種族の一微粒子となります。
この見方を般若心経では、「色即是空(シキソクゼクウ)」といいます。
色は我が肉体、空は天地の大自然です。
「色は是れ空なり」というのですから、両者は不可分一体で、結果的に「我が命こそ自然界の一微粒子」ということになるのです。
我が命が天地から産まれたものであるならば、天地の側には命を産みだす意図、つまり産み出す命への期待があるはずで、自分の側においても我が命の産みだされた目的を知りたいと思います。
この命の期待や目的を「天命」といいます。
易経では、
「天を楽しみ 命を知る 故に憂えず」
・天(自然界)の法則を楽しみ、自分の運命を知れば、憂えることもない。
説苑では、
「命を知る者は 惑わず」
・天命を知っている者は、己が何をすべきかわきまえているので、惑うことが無い。
などというように、論語に代表される儒教思想に限らず、この手の名句名言は星の数ほどあるわけですが、裏を返せばどんな思想観においても『天命思想』は重要であることの証明でもあります。
天命を知り得た人物を尊敬の念を持って知命の人というのはそのためです。
そう考えますと、孔子さまのいう五十歳で知る天命では、少し遅いような気がします。
できれば、気力・体力が充実している三十歳代半ばで知りたいものです。
このように言いますと、大聖人の孔子さまでさえ五十歳だから、「凡人の我々などでは、とてもとても・・・」と言い訳が出てきます。
この種の人を卑下慢人間といいます。
2500年前の孔子さまは独力で知命を掴みました。
一方の我々現代人は、多くの文献や時間もあり、恵まれた環境に置かれているわけですから、甘いことを言っていてはいけないのです。