【意味】
大言壮語の者は、必ず少器量の者である。
【解説】
大言壮語とは、大げさに言うことです。
ある種の過大表現ですので、嘘 ということになります。
代表的な二種類の嘘について考えてみます。
一つは既成の事実を偽る嘘と、二つは未だ成らない事実を実現できると言い含める嘘です。
前者の代表例は、結婚式の祝辞です。一生に一回の晴れの舞台で褒めてもらうのは悪くありませんが、
祝辞どおりの新郎新婦であれば最近のような離婚もこれほど増えません。
派手な披露宴を催し、来賓や友人のちやほやされた祝辞に喜んでしまうようでは、新家庭のスタートが心配です。
見方によれば、結婚式の過大な祝辞もある種の大言壮語といえます。
後者の代表例は、政治家の公約です。
国民受けする公約を掲げて期待を集め、選挙に勝った後は 「言っていない」や「解釈の違い」などと手の平を返します。
情報が得やすくなった現代社会ではこの嘘が直ぐにばれますので、
選挙民の信頼を失い政治家の権威が低下しているような気がします。
掲句に従えば、公約違反もある種の大言壮語ですから、小器量の政治家が増えている理由なのかしれません。
掲句に関連した言葉として前漢時代(BC202-AD8)の名君:武帝の「之を言うは易く、之を行うは難たし」というものがあります。
「塩鉄論」の言葉ですが、この本は前漢時代の武帝(BC156~87)の治世を記録したものです。
華々しい外征成果と立派な内政を成し遂げ、自信に溢れていた名君:武帝でもこの言葉を吐いているわけですから、
現代の政治家の公約違反は仕方が無いかもしれません。
武帝は中国前漢の第7代皇帝、初代皇帝劉邦の曾孫にあたります。第5代文帝(祖 父)、第6代景帝(父)による安定期の
「文景の治」を受け、内政は勿論、匈奴征伐などの外交でも実績を挙げ、中国史上で特筆する治世をした名君です。
掲句は人物鑑定される際の一つの基準ですが、度を超す自己宣伝をすればするほど
「必ず小器量の者・・」と烙印を押される恐れがあるわけですから、充分に留意したいものです。
更に厳しい人物鑑定法として、佐藤一斎先生は
「自ら多識を誇るは、浅露の人なり。 自ら謙遜に過ぐるは、足恭の人なり」
と述べています。
自ら物知りであることをさらけ出す者は浅薄露呈の下等人物であり、
自らの謙遜が過ぎる者は媚び諂いの佞人(ねいじん)」(第25講参照)だというのです。
宣伝も謙虚も過ぎれば駄目だとなれば、面接試験を受ける側はどうしたらよいでしょうか。
結論は、小手先を使わないで堂々と自分を表現するしか方法がありません。
面談は人と人の真剣勝負ですから、相手の鑑定側の目が節穴であれば、こちらの人物器量は見抜けません。
見抜けない相手に対して、誰も彼もが媚び諂いの自己防衛をするのでは、世の中はよくなりません。
堂々と不採用になって、「燕雀(えんじゃく)いずくんぞ鴻鵠(こうこく)の志を知らんや」(十八史略)と叫ぶのも痛快なことです。
- ホーム
- 先人の名句名言の教え 東洋思想に学ぶ経営学
- 第26講 「言志四録その26」
好みて大言を為す者あり。その人必ず少量なり。
杉山巌海