2つの配慮義務
安全・健康配慮義務は、裁判所が個々の事件の判断の際に用いる判例法理として展開してきました。まずは、業務遂行中の災害や事故によって発生した生命や身体の毀損について使用者に損害賠償責任を負わせる根拠として、安全配慮義務が確立し、次いで、脳・心臓疾患による過労死や精神障害による過労自殺の社会問題化に対応して、健康配慮義務へと拡大した後、2007年に労働契約法が制定される際にその一条項として成文化されました。労働契約法第5条は、「事業者は、労働契約に伴い、労働者がその生命、身体等の安全を確保しつつ、労働することができるよう、必要な配慮をするものとする」と定めていますが、安全のみならず、健康(衛生)も対象であることに争いはありません。
安全・健康配慮義務の語は、様々な局面で用いられるため、その本質の理解が曖昧になっていることは否めません。
そもそも使用者には、①職場環境や労働条件が労働者の安全・健康を脅かすような危険・過酷なもの(過重労働、ハラスメント被害等)にならないように整備・管理しなければならないという意味での安全・健康配慮義務があるのですが、それに加えて、②危険・過酷な職場環境や労働条件ではなくても安全や健康を毀損するおそれのある脆弱性(素因、疾病、障害等)を抱える労働者には労働を制限・禁止しなければならないという意味での安全・健康配慮義務もあります。使用者が上記①の義務を怠っていれば、労働者はそのように危険・過酷な職場環境や労働条件での労働を拒否すること(それでも賃金は請求できます)が正当化され得ますが、一方、労働者に上記②のような脆弱性があるならば、使用者は労務提供の受領を拒否すること(賃金の支払いは不要です)が正当化され得ます。ところが、脆弱性は、人によって連続性があり、また多様性があるために、上記①と②の境界線はそれほど明確に切り分けられないところに難しさがあるのです。
安全・健康配慮義務が、安全のみならず健康へと拡大したことによって、労働者自身による健康情報開示の協力と自律的健康管理の努力がなければ、健康被害の発生を防ぐことは難しくなりました。安全・健康配慮義務は、労働安全衛生に関するリスクを調査し、管理する義務であり(注1)、手続責任であって結果責任ではありません。産業現場で最も多く直面する課題が、ハラスメント(必ずしもハラスメントとは認定できないが、本人は被害を感じて傷ついている「感じるハラスメント」まで含む。)とメンタルヘルス不調、発達障害(診断を受けてはいない、あるいは、受けるほど重篤ではないグレーゾーンを含む。)等の特性による仕事や職場への不適応、がん等の私傷病の治療と仕事の両立支援へと展開していくにつれて、上記①と②の区別に拘ることに実務的な意味を見出し難くなってきています。結局、労働者と使用者は、「対話」を通じてリスク情報を共有し、それが顕在化しないように互いに協力し合うことが、建設的な途でしょう。
一方、障害者雇用促進法の改正によって、2016年4月から、使用者には、障害者である労働者への差別禁止と合理的配慮提供義務が課されることになりました。「障害者」と言っても、障害者雇用率の算定のように障害者手帳の所持者には限定されません。心身の機能の障害があるため、長期にわたり、職業生活に相当な制限を受けていれば「障害者」に該当しますから、メンタルヘルス不調やがん等の私傷病に罹患している労働者も対象になり得ることに留意すべきです。「合理的配慮」は、アメリカ起源のreasonable accommodationに由来する概念であり、能力発揮を妨げているもの、こと、考え方、やり方等を変更・調整することですが、労働者と使用者の「対話」による共同作業によって、労働者が求められる仕事を「できるようになる工夫」を作り上げることであると言い替えられます(注2)。
合理的配慮提供義務も2つの意味に分けられます。安全配慮義務の2つの意味(上記①及び②)に続いて番号を振りますが、③脆弱性(素因・疾病・障害等)を抱える労働者が安全・健康を損なわずに就労することができるように就労の環境、方法、内容等に工夫を講じなければならないという意味に加え、④素因・疾病・障害等によって心身の機能に制約がある労働者が就労のために必要な能力を発揮できるように就労の環境、方法、内容等に工夫を講じなければならないという意味があります。
安全・健康配慮義務の上記②と合理的配慮提供義務の上記③は、同じく脆弱性(素因・疾病・障害等)を抱える労働者について、安全・健康配慮義務が“働かせないベクトル”として作用するのに対し、合理的配慮提供義務は、労働契約における本質的職務を遂行する能力がある限り、何とかしてその能力を発揮させるべく手立てを講じる“働かせるベクトル”として作用します。
したがって、使用者は、リスク管理と就労支援を両立させるために、疾病・障害によるリスクと制約、仕事のやり方や職場環境の実態をできる限り具体的に把握することが求められているのです。そのためには、労働者との「対話」が何よりも重要です。さらに、この「対話」を促進するために、労働者の主治医や就労支援者、さらには使用者自身の履行補助者である産業医や産業保健スタッフとの連携に努めることが期待されています。
(注1)三柴丈典「使用者の健康・安全配慮義務」(「講座・労働法の再生 第3巻(労働条件論の課題)」(日本評論社・2017年6月)所収)
(注2)小島健一「障害者雇用促進法が求める合理的配慮とは」(「産業保健21」労働者健康安全機構・2022年4月 第108号)、小島健一「職域における若年性認知症への合理的配慮―『工夫することは生きること』―」(「産業医学ジャーナル」産業医学振興財団・2022年5月 Vol.45 No.3)
(参考文献)
- 小島健一「労働安全衛生に関する法律・行政のしくみ」、「労働安全衛生の倫理」(「保健の実践科学シリーズ 産業看護学」(講談社・2016年12月)所収)
- 小島健一「働くことと法」(「公認心理師の基礎と実践 20 ―産業・組織心理学」(遠見書房・2019年9月)所収)
執筆:鳥飼総合法律事務所 弁護士 小島健一
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