■大きな湯船は源泉の鮮度が落ちる
家の風呂とは比べものにならないほど広々とした湯船の中で、手足を思いきり伸ばして浸かる。あるいは、誰もいないプールのような巨大な露天風呂で童心に帰って泳ぐ――。これも温泉の醍醐味のひとつ。
しかし、「100人がいっしょに入れるような大きな湯船と1人しか入れない小さな湯船のどちらかを選べ」と言われたら、私は間違いなく1人用の湯船を選ぶ。
理由は2つ。まず、これは個人的な好みだが、大きな湯船は開放感がある一方で、定位置が決まらず、落ち着かないから。だだっ広い湯船だと、自分にフィットする場所を探さなければならない。その点、小さな湯船はそうした気苦労がない。
もうひとつは、かけ流しの湯船であれば、1人用の湯船のほうが新鮮な湯を堪能できるからだ。当たり前のことだが、湯船の容積が小さいほうが、どんどん湯があふれ出て入れ換わる。湯船が大きければ大きいほど、湯が滞留する時間が長くなる。
そもそも湯船の中の温泉は、均等に入れ替わるとは限らない。湯船の構造にもよるが、どうしても古い湯は湯底のほうに滞留してしまい、水面の新しい湯が先に湯船からあふれていく。入り組んだ形の湯船ほど、その傾向が強くなる。
温泉も食材といっしょで鮮度が命である。酸素に触れることによって酸化してしまうし、本来の成分の濃度が薄まってしまう。
■「源泉かけ流しだから新鮮」とはかぎらない
私は湯を使い回す循環濾過の湯船よりも、湯船からあふれた湯をそのまま捨てる源泉かけ流しの湯船をできるだけ選ぶようにしているが、源泉かけ流しだからといって、すべての湯が新鮮だとはかぎらない。
湯船の体積が大きければ、温泉が入れ換わる時間は長くなるので鮮度は落ちる。さらに、たくさんの入浴客が利用すれば、肌から落ちた汚れも排出されにくくなる。だから、かけ流しだからといって、手放しで歓迎するわけではないのだ。
これまで3600カ所以上の温泉をめぐる中で気づいたのは、湯船は小さいほど気持ちがいいということ。湯船からあふれ出ていく湯の量が多いほど、贅沢で幸せな気分になれる(湯船が小さくても、入浴客が多すぎると話は別だが……)。
山形県鶴岡市に湧く湯田川温泉にも、幸福感を得られる小さな湯船がある。1300年の歴史を誇る湯田川温泉は、毎分約1000リットルという豊富な湯量が自慢だ。
藤沢周平をはじめ、多くの文人墨客に愛された温泉街は、木造瓦屋根の旅館などが並び情緒があふれる。全国的には知名度は低いが、実に雰囲気のよい温泉街なのだ。環境省の「国民保養温泉地」にも指定されている。
■標準の8倍もの源泉が注がれる
温泉街には8軒ほどの旅館もあるが、湯田川温泉の源泉パワーを享受するなら、共同浴場の「正面の湯」がおすすめ。地元の人の生活湯だが、一般客も近くの商店で料金を支払えばカギを開けてもらえる(宿泊客は各旅館が対応)。
湯船は数人で一杯になるサイズで、浴室もこぢんまりとしている。だが、湯口から投入される湯量がすごい。透明な湯(硫酸塩泉)がじゃばじゃばと注がれ、湯船から大量にあふれだす。
それもそのはず、浴槽面積に対する源泉供給量(4時間あたり)が全国でもトップクラスなのだ。正面の湯は、山形県内の他のかけ流し温泉の約4倍、標準的な湯船の8倍もの源泉供給量である。気持ちよくないはずがない。
こんな贅沢な温泉の使い方ができるのは湯量が豊富だから。クセがなく、やさしい肌触りの湯は40℃くらいとぬるめなので、いつまでも浸かっていたくなる心地よさだ。体の疲れがみるみるとれていくだけでなく、気持ちよいほどにザバザバとあふれだす湯を見ていると、心も爽快な気分になる。