「誰かいい人いませんか?」
中小企業の社長から、こんな言葉をかけられることが少なくありません。60歳を超えた社長が後継者候補を、あるいはまだ40歳代の社長でも優れた経営幹部を求めている場合などに、「いい人」を探すのです。
基本的に人は内部で育てるものですが、それのみだと同じ文化の中で同じ価値観をもった人間ばかりになり、革新は生まれにくくなります。外部から優れた人材を迎えることが出来れば、それは企業の存続・発展に有効なのです。
ある企業でこんなことがありました。いつも「いい人」を求めている社長がようやく「営業部長」を見つけてきたのです。社長が面接し、独断で採用を決定したのですが、入社当日に企業の幹部との顔合わせを行なった際、その立ち居振る舞いが気に入らないと、経営陣で社長の親族の方がケチをつけました。そして何と、次の日には解雇してしまったのです。それだけ権限があるのなら、最初からその親族の方も面接に立ち会っておくべきでした。こういう企業に人を紹介することは恐ろしくて出来ません。
「十八史略」に人を集めた例があります。
戦国時代、燕(えん)の国では、易(い)王のとき、宰相に仕事を任せ、王は隠居して政務をとらなくなったばかりか、とうとう宰相の臣下になり下がりました。実はこれ、斉(せい)の国の陰謀で、賢明な王は臣下に政治を任せるものだなどと、巧妙に吹き込まれたのです。燕国は大いに乱れました。
斉がこの機に乗じて燕を伐(う)つと、燕はたちまち敗れ、宰相は塩漬けにされ、易王は殺されたのです。
その後、燕の人々は太子を立てて君主としました。これが昭(しょう)王です。昭王は戦死者を弔(とむら)い、生存者を慰問しました。また、丁寧な言葉で、かつ俸禄を厚くして賢人を呼び寄せました。
あるとき、知者の郭隗(かくかい)に尋ねて言うには、
「斉は、わが国が乱れたのにつけこんで攻め込み、燕を破った。私は燕が極めて小国であり、斉に報復できないことを十分に承知している。ついては、ぜひとも賢人を得て、この国を共に発展させ、いずれ斉を伐(う)って先王の恥をすすぎたいと願っている。先生、どうか適当な人物を見立ててほしい。私はその人物を師として仕えたいのだ」
郭隗はこう答えました。
「昔、ある国の君主が千金を投じてお側の者に一日千里を走る駿馬を探させました。ところが、その男は死んだ馬の骨を5百金で買って帰りました。君主は非常に怒りましたが、その男は『死んだ馬さえ5百金も出して買ったのです。ましてや生きている馬にはどれほど出すかわからないと評判になるでしょう。今に千里の馬がやってきます』と言いました。1年もたたないうちに、千里の馬が3頭もやってきたということです。あなたも本気で人材を得たいと思し召すならば、まずこの郭隗から始めてください。そうすれば、私よりもすぐれた人物が千里の道を遠しとせずにやって参りましょう」
そこで昭王は郭隗のために邸宅を築き、師事したのです。
この話が広まると、天下の賢人が先を争って燕の国に集まってきました。そのひとりの楽毅(がっき)は、魏(ぎ)からやってきて亜卿(あけい)(卿に次ぐ身分、準家老職)に取り立てられ、政治を任されます。
やがて楽毅は将軍となって斉を攻め、都の臨淄(りんし)まで攻め入ったのです。斉王は都を逃げ出しました。楽毅は勝ちに乗じ、6ヵ月の間に斉の70余城を攻め落とします。昭王が怨みを晴らしたそのとき、即位してから実に約30年の月日が経っていました。
即位した当時、昭王は斉に服属するという条件を飲んで王となりました。斉との戦いを避け、いつの日か報復することを夢見ながら、長期戦略で着々と賢人を集め、国力を高めたのです。そうして生きている間に斉への報復を果たしました。
「まず隗より始めよ」と言われた昭王は、郭隗を丁重に遇しました。王のこの姿勢が次々と優れた人物を呼び寄せることにつながったのです。
企業においても、
社長が周囲の人を大切にすることが、外から賢人を招くことにつながる
のです。企業を成長させられるか、中小零細に止まるかは、この社長の姿勢次第といっても過言ではありません。