「戦わずして勝つ」「勝ち易きに勝つ」といった理想を実現するのは簡単なことではありません。なぜなら、相手もそう願っているからです。
「勝ちたい」と思う者同士がぶつかり合うのですから、深く敵のことを調べて、どのように働きかければ敵が戦意を失うのか、あるいはどの弱点を突けば簡単に敗北を認めるか、などのことを見極める必要があります。
これには相当な洞察力が不可欠です。
「十八史略」にこんな話があります。
三国時代、蜀(しょく)の諸葛亮(しょかつりょう)孔明(こうめい)は、昭烈(しょうれつ)皇帝、劉備(りゅうび)玄徳(げんとく)の死後、国力を増大させてから、劉備との約束を果たすべく、しばしば魏(ぎ)に対して戦を仕掛けました。
祁山(きざん)を包囲された魏は、大将軍、司馬懿(しばい)仲達(ちゅうたつ)を遣わし、諸軍を統率して諸葛孔明の軍を防がせます。
このとき、司馬懿はあえて戦わないようにしましたが、武将らが、「公は蜀軍を虎のように恐れておられます。天下の物笑いとなっておりますぞ。どうなさるのですか」と忠告してきたので、司馬懿は張郃(ちょうこう)という将軍に命じて諸葛孔明と戦わせました。諸葛亮はこれを迎え撃ち、魏軍は大敗北を喫してしまったのです。
しかし、その後、蜀軍は食料が尽きたため退却しました。
諸葛孔明は何度か出兵して、いつも食糧の運搬で失敗し、志を遂げられなかったので、軍隊を手分けして屯田(とんでん)させることにして、また魏を攻めました。
そしてしばしば司馬懿に戦いを挑んだのですが、司馬懿は応戦する気配を見せません。
そこで諸葛孔明は、使者に婦人用の頭巾と服をもたせ、司馬懿のもとへ行かせて贈りました。臆病さをからかったのです。
司馬懿はその使者に、諸葛亮の寝る時間、食べる量、仕事の忙しさの度合いなどを尋ねて、軍事には触れませんでした。
使者が、「わが諸葛公は、朝は早く起き、夜は遅くに就寝し、杖罪(じょうざい)20(杖で20打つ軽度の罰)以上のものは皆、自分でお調べになり、食事の量は少なくて、日に3、4合に過ぎません」と答えると、司馬懿は周囲の武将たちに言いました。
「食事の量が少なくて仕事は多忙である。もう長くはあるまい」
司馬懿の予測どおり、諸葛亮は病気になり重態に陥ります。ある夜、赤くて長い尾を引いた大きな彗星(すいせい)が現れ、諸葛孔明の陣営の中に落ちました。間もなく諸葛孔明は亡くなったのです。
司馬懿は、諸葛孔明の率いる蜀軍との戦いをなるべく避けようとしました。仮に勝ったとしても、手ごわい敵と戦えば自軍の消耗も激しいからです。
挑発にも乗らず、冷静に諸葛孔明の状態を把握して、死ぬのを待ったのです。戦わずして勝つことを狙ったのでした。
しかし、諸葛孔明も最後まで負けてはいませんでした。
蜀軍があわただしく引き揚げるのを見た土地の者から情報を得た司馬懿はただちに追撃を命じましたが、蜀軍の将軍姜維(きょうい)は、旗の向きを変え、進軍の太鼓を打ち鳴らし、いまにも反撃するかのように見せかけました。
どうやら生前、孔明が動き方を指示していたようなのです。司馬懿は用心して、それ以上追撃しようとはしませんでした。土地の者たちは、
「死せる諸葛、生ける仲達を走らす」
という諺(ことわざ)を作ったと聞いて、司馬懿は苦笑しながら、
「生きている者のすることは察しがつくが、死んだ者は何をするやら分からんからな」と語ったということです。
諸葛孔明はかつて兵法の原理を割り出して、「八陣の図」という軍隊の配備法を作っていました。孔明の死後、司馬懿はその陣営の跡を調べてまわり、嘆息してこう言いました。
「諸葛孔明は天下の奇才である!」
諸葛亮孔明と司馬懿仲達は好敵手であり、両名とも勝てる条件が整わなければ積極的に戦うことを避けました。生き残る者とは、勇猛果敢さの裏に慎重すぎるほど慎重な面を併せ持っているのです。
企業においても、勝つためにはまず、
どんなニーズに対して何を提供すれば簡単に売れるか、調べ上げる
ようにしなければなりません。勝てるポイントを慎重に見つけ出すのです。
それさえ見つかれば、売るための努力は最小で済みます。戦術を検討する前に、まず戦略面で頭をフル活用しましょう。