心から人と会社を大切にしていれば、前回の諸葛孔明のように公平を旨とする組織運用が出来るはずです。
これは経営戦略や戦術にも通じます。人と会社を大切にするほど、
・なるべく傷を負わないようにしたい
・戦わずにこちらの主張を通したい
といった考え方になります。「孫子の兵法」や「老子」に見られる戦争観です。
「十八史略」にこんな話があります。
後漢(ごかん)の世祖(せいそ)光武(こうぶ)皇帝は、天下を平定したのち、故郷の南陽(なんよう)の地に行幸(ぎょうこう)しました。酒宴の席で帝の叔母たちは口々にこう言い合います。
「この子は平生、人に愛想の一つも言わず、ただ素直でおとなしいのが取り柄だったのに、よくまあ天子になったものだ」
これに対して光武帝は笑ってこう言いました。
「私は、天下を治めるにあたっても、柔、つまりおとなしいやり方でいこうと思います」
光武帝は、長年、戦場にあったため、軍事を厭(いと)うようになっていました。蜀(しょく)の地を平定した後は、よほどの緊急時でない限り、決して軍隊のことを口にすることは無かったのです。
北匈奴(きたきょうど)(モンゴル高原を中心に活躍した遊牧騎馬民族)が旱魃(かんばつ)や蝗(いなご)の害で国力が衰えたときのこと。
漢の2人の将軍がこの機会に匈奴を攻め滅ぼしたいと上書してきました。両名とも、剣を鳴らし、手を打って勇み立ち、心はすでに匈奴の都城のある北へ飛んでいるようす。
しかし、光武帝は返書に、
「柔よく剛に勝ち、弱よく強に勝つ」
と書いて、許可しませんでした。それ以後、将軍たちは誰も戦争のことを口にしなくなったと言います。
光武帝は、玉門関(ぎょくもんかん)を閉じて西域との交渉を絶ちました。
創業の際の功臣の安全を考えて、二度と軍事に従わせず、皆、大名に取り立てて大邸宅に住まわせます。役人のすべきことはすべて三公(三種の宰相職。大尉(たいい)・司徒(しと)・司空(しくう))に責任を持たせ、功臣には役人の仕事を任せることは無かったので、諸将はいずれも名誉をまっとうして一生を終えました。
このように、天子がおかしな欲さえ抱かなければ、無駄な戦いに命を散らすこともないのです。
人間にとって最も大切な命。命をかける決断は、検討に検討を重ねたうえで下されねばなりません。戦争の仕方の書である「孫子の兵法」の冒頭に、
「兵は国の大事(だいじ)なり。死生(しせい)の地、存亡(そんぼう)の道、察せざる可(べ)からざるなり」
(戦争は国の一大事である。なぜならば、国民の生死と国の存亡の分かれ目となるからだ。よって熟慮のうえで方針を決定しなければならない)
とあります。
戦争のプロで、呉(ご)の国を連戦連勝に導いた孫子が、人命を重視し、戦争という手段を安易に用いることを強く戒めている点には考えさせられるものがあります。
企業経営においても、
戦わずして勝つ、勝ち易きに勝つ道を探るのがホンモノの経営者
であると言えるでしょう。戦いを奨励するとすれば、それは自分との戦いに限ります。