凱旋パレードの先頭に立つ
シャルル・ド・ゴールの見立てでは、パリ解放は、連合軍司令部から聞かされていたスケジュールよりも早かった。ド・ゴールが亡命自由フランス政府の拠点である北アフリカのアルジェから急ぎパリに戻ったのは、戦後復興を見越して、自らがフランス統合の中心にいなければならないという自負があったからだ。
ドイツ軍の電撃侵攻で、合法的フランス政府を維持しながらも実質的に占領下にあったフランス国内で対独抵抗運動を展開していたのは、フランス共産党指導下の国内レジスタンス派の闘士たちだった。海外で活動するド・ゴール派の影響は及ばない。しかも、パリが解放されたのは、彼らレジスタンスの一斉蜂起が連合軍の進軍を早めた結果でもある。弾圧の中で、多くの活動家たちが命を失っている。一斉蜂起の市街戦でも多くが倒れた。
政治的にはド・ゴールは出遅れた。そこでまた彼は一芝居を打つ。パリ解放の二日後、凱旋門の無名戦士の墓に詣でたド・ゴールは、大群衆の先頭に立ってシャンゼリゼ通りを凱旋パレードする。ド・ゴールを初めて見るパリ市民たちは、2メートル近い長身に伝説の英雄の姿を重ね、「ド・ゴール、ド・ゴール」と叫び続けた。
フランス統合の象徴として
ド・ゴール家は系譜を遡れば、フランスの下層貴族の出だが、その姓は、「ゴール(フランス民族)の」と言う意味で、名を聞けば由緒正しき英雄風でもある。その効果を彼自身、利用した。「苦難のフランスのために戦い続けた英雄は私だ、共産主義者のレジスタンスではない」。名前が愛国心をくすぐる。例えていえば、「日の本太郎」が、荒廃の祖国に帰ってきた。
体制が劇的に変わる時、国家であれ企業であれ、権力争いが生じ、泥沼の対立抗争が起きて危機となる。それを防ぐためには、和解と統合の象徴を人々は求める。ド・ゴールがその期待にはまった。
パリ解放後、市民たちはナチス協力者の洗い出しを始める。密告も相次ぎ、協力者たちは市中を引きまわされた。公民権剥奪者も相次いだ。ドイツ軍政下で多くの市民は、沈黙を守り様子見をしていたにもかかわらす、解放されたとなると、「自分は抵抗していた」として、親独人士の摘発に躍起となる。
ド・ゴールは、和解を目指す。親独政権を率いたペタン将軍は、政策に従わず海外に逃避したかつての部下、ド・ゴールに死刑判決を下したことがあるが、今度は第一次大戦の英雄だったペタンに死刑判決が降る。ド・ゴールは、彼に高齢を理由に恩赦減刑を与えている。復興のためには要らぬ対立は避け、挙国一致、国民統合こそ欠かせないと認識していた。
東西冷戦を先取り
和解と統合を進めるド・ゴールにも、譲れない一線があった。破壊されたフランスの立てなおしの主導権から、共産主義者、急進社会主義者たちを排除することだ。解放後、挙国一致臨時政府を成立させた彼は、やがて左翼勢力を徐々に排除する。国を離れて四年間、海外で外交場面を見つづけた経験から、戦後世界が自由主義と共産主義の体制対立、東西冷戦の時代に入ることを見抜いていた。共産主義者の活動は危険に見えた。
第二次世界大戦では、スターリンのソ連も連合国の一員だった。ソ連に侵攻したドイツ軍がソ連軍に包囲され激戦の末に敗北したスターリングラードの戦い。これがドイツ軍の衰退を招いたのだが、直後にド・ゴールは現地を視察している。そして側近につぶやいた。「よくまあ、こんな遠くまで来て、よく戦ったものだ」。ドイツ軍の健闘を讃えたのだという。それほど彼はスターリンのソ連を嫌った。
敵国ドイツであれ、連合国仲間のソ連であれ、権威主義の独裁国家ほど怖いものはない。「ドイツに勝利した後は、共産主義独裁と自由主義の戦いになる」。英国首相チャーチルの戦後見通しと一致している。
そしてここから祖国解放の英雄としてのド・ゴールの、フランスの戦後がはじまる。彼にとって危機克服の本番は、まだこれからだ。
(書き手)宇惠一郎 ueichi@nifty.com
※参考文献
『ドゴール大戦回顧録』シャルル・ド・ゴール著 村上光彦、山崎庸一郎共訳 みすず書房
『ド・ゴール 孤高の哲人宰相』大森実著 講談社
『戦時リーダーシップ論』アンドルー・ロバート著 三浦元博訳 白水社
『フランス現代史 英雄の時代から保革共存へ』渡邊啓貴著 佐藤亮一訳 中公新書