■温泉街の第一印象は……
温泉にあまり詳しくない人でも、「由布院温泉」という温泉地名は聞いたことがあると思う。雑誌やテレビなどで紹介される「全国人気温泉地ベスト××」といった類のランキングでは、必ず上位に顔を出す常連だ。
実際、オシャレな雰囲気の飲食店や土産物屋が軒を連ねる街並みは、人の往来が絶えず華やかである。また、洗練された温泉宿が多く、とくに「由布院 玉の湯」「亀の井別荘」といった全国に名を轟かせる名旅館も存在する。しかし、筆者はそんな由布院温泉があまり好きになれなかった。最初に由布院を訪ねたときの印象があまりよくなかったからだ。
20年ほど前、九州旅行の途中、日帰りで立ち寄った由布院温泉は、あまりにも温泉街としての情緒がないように感じた。最も賑やかな湯の坪街道には、キャラクターグッズの販売店や東京にあってもおかしくないような雑貨屋や飲食店が並んでおり、観光バスを降りた人が次々と押し寄せる。いわゆる「観光地化」が進んでいる印象を受けた。
大げさな言い方をすれば、温泉地ではなく、東京の竹下通りにやって来た気分だった。だから由布院はダメだ、というわけでは全然ないのだが、鄙びた雰囲気の素朴な温泉が好みの筆者は、ちょっとがっかりしてしまったのだ。
■金鱗湖と由布岳
それから数年後、再び由布院を訪れた。今度は、宿泊してゆっくり湯めぐりを楽しむ予定だった。湯の坪街道は、あいかわらず華やかで観光客も多かったが、温泉街の外れに位置する金鱗湖周辺は、比較的ゆったりとした時間が流れていた。
金鱗湖は、周囲400m、水深2mの小さな湖。一見、何の変哲もない池だが、実は湖底から温泉と清水が湧き出している。だから、冬季は外気温との温度差によって水面からもやもやと朝霧が立ち上るという。
湖畔からは、由布院のシンボルである由布岳(標高1583メートル)を望むこともできる。「豊後富士」とも称される円錐形の山容は美しい。だが、その美しさとはうらはらに、由布岳は今も火山活動を続ける活火山。毎分3万8600リットルという全国3位の湧出量を誇る由布院の温泉は、由布岳の恵みである。
そんな水と山のパワーを同時に体感できる金鱗湖は、まさにパワースポット。初めて由布院を訪ねたとき、金鱗湖に立ち寄っていれば、由布院の印象が少しは変わっていたかもしれない。
■会話に花が咲く共同浴場
湖畔にある「下ん湯」に入浴した。茅葺き屋根が特徴の無人の共同浴場である。建物の扉を開けると、すぐに浴室。脱衣所と湯船が一緒になった内湯と、金鱗湖に面した露天風呂が一つずつある。混浴であるうえに、見学して帰るだけの観光客もいるので、女性が入るには相当の勇気が必要かもしれない。
露天風呂は、湖の対岸から覗かれてしまうのではないか、と思うほどの開放感。かけ流しにされている無色透明でやさしい感じの湯も心地よい。
一緒に入浴していた地元の常連さんが、「外からの資本がどんどん入ってきてから、由布院は変わってしまった」とぼやいた。たしかに、その通りかもしれない。筆者も静かにうなずいた。
そのとき、内湯からは「どこから来た?」「東京からです」と言う声が聞こえてきた。地元の人と観光客の若者が会話に花を咲かせていた。住民と旅人の心の交流が行われるのも昔ながらの共同浴場の魅力のひとつだ。このとき、「由布院もいいじゃないか」と思った。変わるものもあれば、変わらないものもある。温泉は昔も今も変わらずに、由布院を訪ねる人の心身を癒してくれているのだ。
翌朝、朝霧に包まれる幻想的な金鱗湖の光景に感動したあと、由布岳の雄姿が望めることで有名な旅館の露天風呂に入った。広々とした湯船に浸かりながら、雲ひとつない青空に堂々とそびえ立つ由布岳を眺めるときには、すっかり由布院温泉のとりこになっていたのだった。
それから何度も由布院温泉を訪ねているが、毎回すばらしい湯と景色に心身を癒やされている。