分刻みで「のぞみ」が発着する東京駅新幹線18・19番ホームの品川寄り先端に一人の男のレリーフがひっそりとあるのを知るものはまずいないだろう。
この男の執念ともいえる信念がなければ、東海道新幹線は実現しなかった。男の名は十河信二(そごう・しんじ)。第四代国鉄総裁だ。
十河が71歳で国鉄総裁に就任したのは、昭和30年。洞爺丸事故、紫雲丸事故と大型事故が相次ぎ、国鉄は批判の矢面に立たされていた。さらに、赤字が膨らみ続ける中で総裁の引き受け手などいなかった。
十河も老齢と病気を理由に固辞したが、同郷愛媛出身で保守政界の大立者の三木武吉に恫喝まがいの説得を受け総裁職を引き受けた。
戦前の鉄道院官僚だったとはいえ、鉄道疑獄に巻き込まれて組織を去った身。「線路を枕に討ち死にの覚悟」と就任会見で決意を語ったが、新聞は「鉄道博物館から引っ張り出された古機関車」と書き、実
力者総裁が決まるまでのつなぎと、だれもが考えた。
しかし、十河には、引き受けたからにはこれだけは、という拘わりがあった。東海道新幹線、いわゆる「夢の超特急」構想の実現だ。
戦後復興は軌道に乗り始め、大量の人と貨物の輸送を担う東海道線は過密ダイヤでパンク寸前だった。
「東京―大阪間に広軌の新幹線を必ず走らせて見せる」
しかし、国鉄幹部たちも、「爺さんのたわごとだ。十河はすぐにいなくなる。適当にあしらっておけ」と協力の姿勢はない。
官民を問わず“役人根性”とはそうしたものだ。保身優先。リスクを抱える度量はない。民間でも社内にはびこる“役人”をどう動かすかがリーダーに問われる。
老体に鞭打って十河の政治家回りが始まった。政治家にとって鉄道は利権の具。明治以来、地元路線新設の予算分捕りが常態化していた。
新幹線に予算を取られれば、「おらホの線路ができない」と抵抗する政治家たちに夜討ち、朝駆けが続く。
「国家百年の大計」を説く鬼の形相を前に、一人また一人と賛同者が増えていく。
ようやく国会で総工費1972億円の新幹線予算が国会を通ったのが昭和34年3月。しかし十河の指示で実際の総事業費を6割に圧縮したごまかし予算で、いずれ資金不足が露呈するのは目に見えている。
ここで時の大蔵大臣・佐藤栄作が国鉄に知恵を出す。
「内閣が変われば建設方針が揺らぐかもしれない。世界銀行に借り入れを申し込め」
戦後復興のための国際金融機関として設けられた世銀からの融資には、政府の事業完成の保証が必要となる。
「外から縛りをかけておくことが必要だ」。佐藤の入れ知恵に、十河は世銀詣でを開始した。(この項、次週に続く)